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通勤時、目に映る古里は今も更地 小6で被災、学校は津波にのまれ<立ち上がっても 福島・東日本大震災13年>中


通勤時、目に映る古里は今も更地 小6で被災、学校は津波にのまれ<立ち上がっても 福島・東日本大震災13年>中 「伝承館」で働きながら語り部としても活動する横山和佳奈さん=8日、福島県双葉郡双葉町の同館
この記事を書いた人 Avatar photo 新垣 若菜

 職場である、震災の記録を残す「伝承館」への通勤コースになっている古里はいまだ更地が広がる。その中で新しい建物がぽつりぽつりと建ち始めた。「スタート地点に来るまで長かったな。元の生活に戻れればいいんですけど」。横山和佳奈さん(25)はさみしそうに笑う。

 2011年3月11日に発生した東日本大震災で、出身地の浪江町は震度6強の地震に襲われた。その後、町から4キロの距離にある東京電力福島第1原子力発電所の事故により、2万1000人の全町民に避難指示が出された。

 当時は町立請戸(うけど)小学校の6年生。帰りの会の時だった。大きな揺れを感じ机の下にとっさにもぐりこんだ。それでも机ごとずるずると横の方に移動していく。ガチャンガチャン、建物のきしみか、聞いたことのない音が響いていた。

 全児童で地域にある唯一の高台である大平山へ走った。学校は海岸から300メートル。津波の恐怖はなかった。それまであまり見たことがなかったから。「阪神・淡路大震災はもっとひどかったのかな」。友達とそんな会話を交わしたのを覚えている。児童と教員は全員無事だったが校舎は15メートルを超える津波にのまれた。

 津波からの避難もつかの間、原発事故でさらに遠隔地への避難を求められた。再会した両親、弟と県外も含め各地を転々とした。家の近くにある原発の存在は知っていたが、どういうものかは深く理解していなかった。4月に学校の再開を受けて、福島県郡山市のアパートに移り、高校卒業まで生活した。思春期だったこともあり、両親と震災の話をすることはなかった。

津波の被害にあった請戸小学校の校内。震災遺構として当時の姿を残す=2月25日、福島県双葉郡浪江町
津波の被害にあった請戸小学校の校内。震災遺構として当時の姿を残す=2月25日、福島県双葉郡浪江町

 入域制限があった請戸に入れたのは3年後。震災遺構として残る母校の黒板に「やっと請戸これた」とメッセージを残した。請戸地区は17年に避難指示が解除されたが、浪江町は全体の75%がいまだ帰還困難区域だ。

 宮城県仙台市の大学に進学し、ボランティアで震災の経験を話す機会が多くなった。たくさんの人に震災のことを知ってほしいとの思いも募り、卒業後の進路は「伝承館」に決めた。古里の近くにいたかったことも大きな理由の一つだ。語り部活動も始めた。先日、修学旅行で訪れた中学生の感想に「震災のことは何となく知っていたけど、勉強になりました」とあった。風化が進んでいるように感じた。

 あの日から13年がたつ。「それなのに復興が始まっていない場所もたくさんあるんです。福島に一度来てほしい。見てほしい。忘れないでほしい」。人々の笑顔であふれていた頃の町を思い浮かべながら、震災を語り継ぐ。

 (新垣若菜)