青々とした水田に黄金の稲穂―。宜野湾市伊佐浜は県内有数の米どころとして栄えた。「今も美しかった田んぼが浮かびます」。伊佐浜出身の澤岻安一さん(101)は沖縄一の「美田」と称された古里の情景を忘れない。戦後、米軍がキャンプ瑞慶覧の拡張のため土地を強制接収した。今は「伊佐浜交差点」などの名称に面影を感じるだけだ。安一さんには「土地が殺された日」の光景も焼き付いている。
安一さんは従軍先のベトナムで終戦を迎えた。1946年11月に沖縄へ戻り、家族と再会。沖縄戦で荒れ果てた土地を父と耕し、収穫が安定したのは6~7年後だ。「伊佐浜の米は薬のような存在だった」という。生活は徐々に上向き始めた。
54年4月、米軍は蚊の抑制を名目に水稲の植え付け禁止を発表した。それから家屋32戸を含む約43万平方メートルの明け渡しを勧告した。生活の糧を生み出す土地を奪われまいと、住民らは琉球政府などへの陳情や折衝を重ねた。宜野湾村(当時)の役場に勤めていた安一さんも、住民の代表だった父と反対し「政府などに出す陳情書をいくつも書いた」。
反対運動は強まったが、米軍は要求の大半を拒否した。伊佐浜住民は納得がいく補償を得るまでは立ち退かないという態度を示したが、米軍の圧力で容認に追い込まれる人が増えた。やがて伊佐浜住民は孤立するようになった。
「伊佐浜以外の地域は別の土地を耕そうと思えばできたが、われわれにはそういう土地が一切なかった」と安一さん。伊佐浜では女性が中心となって「金は1年、土地は万年」を合言葉に最後まで反対した。
55年7月19日未明。銃を持った米兵が軍道1号(現国道58号)を埋め尽くすように押し寄せた。鉄条網を張り巡らし、住民を蹴散らした。
沖合に停泊したしゅんせつ船がくみ上げた土砂で「美田」を埋め立てた。「土地が殺された」瞬間だった。
土地を奪われた住民の多くは、インヌミヤードゥイと呼ばれた美里村(現沖縄市)高原に移った。安一さんの弟で当時中学生だった安三郎さん(81)もその1人で、当時の高原は「石ころが多く、耕すのが大変だった」と振り返る。
高原の生活は厳しく、琉球政府の誘いに応じる形で安三郎さんは両親と3人で、他の伊佐浜住民とブラジルに移住した。ブラジルでは苦難の連続で、移住から8年後、帰国した。伊佐浜移民で帰郷したのは安三郎さん一家だけだった。
安三郎さんは2019年、伊佐浜に関する本をまとめた。「日米政府による不条理の中、必死に生き抜いた伊佐浜の記憶を残したかった」
土地接収から69年。過重な基地負担は今も変わらない。安一さんは「対等な日米関係を築かなければ基地問題は解決しない」とみる。現在、2人が所有する土地は「24年度またはその後」の返還が決まっているが、返還時期は未定だ。「生きている間の返還を」。2人の願いだ。
(吉田健一)
伊佐浜土地闘争 1955年7月19日未明から20日にかけて、米軍がキャンプ瑞慶覧の拡張を目的に宜野湾村(現宜野湾市)伊佐浜の土地を住民の反対を押し切って接収し、32世帯が住む家を奪われた。病気を媒介する蚊の発生防止を名目に、米軍が稲作の禁止を通達したことが始まり。その後、米軍は前言を翻し基地建設の必要性を振りかざした。住む家を失った住民の多くは大山小学校に避難し、その後23世帯が美里村(現沖縄市)高原のインヌミヤードゥイに移住した。