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娘と読む物語 本を通じ考える世界 少女たちの強さ信じて 上間陽子<論考・2024>


娘と読む物語 本を通じ考える世界 少女たちの強さ信じて 上間陽子<論考・2024> 文中で紹介した書籍
この記事を書いた人 Avatar photo 共同通信社

 猛暑である。沖縄でも海からの風がぴたりとやんで、空気が抜けない。暑さでぐったりする大人たちを尻目に、夏休み中の娘は、鼻歌交じりで楽しそうだ。というのも、学校の宿題は、早寝早起きをしましょう、家のお手伝いをしましょうというあっさりしたもので、娘の夏休みはただただ自由で、彼方(かなた)に広がる。

 親にはこんな宿題が出された。秋からは一人で本を読み進めるので、夏休みは本をたくさん読んであげてください、身体は大きくなっていても、まだまだ人の声で物語を聞くのが好きですよ。

 実家の本棚から私が子どもの頃に読んでいた本を取り出してきて、ぎょっとした。「フランダースの犬」や「小公女セーラ」は、虐待を受けている子どもの話だ。「大草原の小さな家」や「ドリトル先生」は先住民を侮辱するような言葉が続く。「あしながおじさん」にいたっては年配の支援者と、支援を受けた女性が結婚する話。なんとまあ、大人に都合のいい話が名作として陳列されてきたのか。

 娘と読む本をあらためて探すことから始めた。「きょうは ソンミの うちで キムチを つける ひ!」(セーラー出版)は、キムチづくりの話だ。冬支度の楽しさとキムチの辛さを想像しながら読み進めると、私たちと違う文化で暮らしを営む人が、ひょいと隣にやってくる。

 「トヤのひっこし」(福音館書店)は、モンゴル遊牧民の話。春の終わり、トヤは家族や家畜と移動を開始する。砂漠を越え、雨嵐を耐え、新しい草原にたどり着くと、そこはもう輝く夏だ。

 草原を旅する物語の後に読む「なんみんってよばないで。」(合同出版)は、ひときわ辛(つら)い。「このまちを でていかなくては ならないの と おかあさんが いった」で始まる作品は、子どもの手を引いて安全な場所へと逃げると決めた母親が、これから行く先々で起こることを子どもに語り聞かせる物語だ。今こうしている間も、無数の親子が何も持たず逃げ惑う。世界はまだジェノサイドを止められない。頭を抱える。

 「ヒロシマ 消えたかぞく」(ポプラ社)は、8月になってから読んだ。猫をおんぶする子どもにカメラを向ける父親の笑い声が聞こえるような家族の歩みは、ある日を境にぷつりと終わる。何があったのと娘に問われ、8月6日の広島への原爆投下で、猫も犬もお父さんもこの子もいなくなったよと告げると、娘はしんと静かになった。

 戦争は、弱いものを踏みにじる。もう少し娘が大きくなったら、慰安婦にされ性暴力を受け続けた女の子の人生を描いた「花ばぁば」(ころから)や「草」(同)にも出会わせなくてはと思う。

 性暴力は、戦時だけに起きるのではない。教育現場の加害を伝える「言えないことをしたのは誰?」(現代書館)もまた、大切な一作だ。子どもを手なずける加害者のグルーミングの手法を確認しつつ、性暴力を許さない大人がたくさんいること、どんな時もあなたは守られることを伝えたい。

 「女の子がいる場所は」(KADOKAWA)は、自由な服装や髪形が許されず、学ぶことを奪われている少女が今なお世界にたくさんいることを思い起こさせる。彼女たちが因習から脱することができるかは、抑圧の中で育った上の世代が意識を変えられるかにもかかる。娘の幸せのためという言葉で、私は自分の価値観を押し付けていないか。これは私たち大人が知るべき物語である。

 夏休みも折り返し。娘は髪の毛をきりりと結び、友だちと連れ立ってエイサーで使う「旗頭(はたがしら)」という旗を手に地域を練り歩く。そして、今日も本を読んでもらいながら眠りにつく。のびやかな娘の姿を見つめながら、学校からの夏の宿題は、日々を慈しみ、大切に過ごしなさいというメッセージだったと了解する。

 「わたしは無敵の女の子」(海と月社)に登場する趣味やスポーツに没頭する少女たちは、強さへの志向を屈託なく口にし、自信に満ちた顔で写真に納まる。女の子はこういう顔をして笑うのだ。

 だからそう。娘は、私とは違うやり方で、自分の力で幸せをつかむのだろう。娘たちはたぶん、私たちが思うよりずっと強い。

(教育学者)
(共同通信)