「非琉球人」として米統治下の沖縄の社会から疎外され、差別や偏見を受けることもあった在沖奄美出身者らは「ゆがんだ占領」の歴史を後世に伝えていってほしいと望んでいる。
奄美大島の請島(うけじま)出身の津留健二さん(90)=那覇市=が琉球大への進学で沖縄に来たのは1952年4月。同じ米統治下の奄美と沖縄は船で往来でき、奄美から通学や就職で大勢が沖縄に向かった。奄美返還は大学2年の時。喜びもつかの間だった。奄美出身者は第二次入管令で「外国人」扱いになり、公職に就けないため、立法院に勤めて法律や政治を勉強する夢は断たれた。
琉球大に124人いた奄美出身学生は、文部省の措置で113人が本土の大学に無試験で転学していった。残ったのは、幼い時に父親を亡くし、経済的な事情で転学できなかった津留さんら11人。津留さんは一念発起して勉強に身を入れ、学生会長にも当選。米国の圧力を感じる日々の中、助言や支援してくれたのは沖縄の人たちだった。
首里高校に就職し、琉球大学長の支援で戸籍も取得。その後、県教育長や沖縄女子短期大特任教授などを歴任した。「周りの人のおかげでウチナーンチュになれた」と振り返り、沖縄と奄美を分断した戦争と戦後史を若い世代にも知ってほしいと願う。
「体験者がいなくなっている。ゆがめられた占領政治をこれからの若い人たちにいかに語り継いでいくか。これが大きな課題だ」
加計呂麻島出身の内山照雄さん(90)=南風原町=は1950年、仕事を求め沖縄に来た。「あんたらが来たせいで俺たちの仕事がなくなる」。当初は厳しい言葉をかけられた。「考えてみたら(仕事を奪っているのは)事実だから言い返せない。日雇いで認められないと、あしたから食べるものもないと必死だった」
60年に半永住許可が出されたものの、安心はできなかった。警察の検問を避け、4、5時間車を隠して自宅に帰らなかったこともある。民衆が米軍の車両を焼き打ちした70年の「コザ騒動」の発生時は北谷町の知人宅にいた。奄美出身者は「Fナンバー」だったため、襲われないか不安を抱えながら帰り道を急いだ。
それでも「一度もこっちから出ようという気持ちにならなかった」。印刷所を立ち上げ、多くの沖縄の人に支えられたという。「一番沖縄の人に助けてもらった。友達付き合いの中で差別されたことは一度もない。『大変だったね』と言ってくれるのはむしろ沖縄の人たちだった」。そう語る瞳がうるんだ。
(中村万里子)