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次の100年へ 出会い大切に、知名度アップへ 川崎沖縄ファンクラブ代表の友利充秀さん<県人ネットワーク>


次の100年へ 出会い大切に、知名度アップへ 川崎沖縄ファンクラブ代表の友利充秀さん<県人ネットワーク> 川崎沖縄ファンクラブ代表の友利充秀さん
この記事を書いた人 アバター画像 斎藤 学

 関東大震災が発生して昨年は100年だった。東京都墨田区の復興記念館で当時を写した一枚を目にして圧倒された。「和装姿の被災住民がひしめき、身を寄せ合う。荷を積んだ大八車も映り込んでいた」。考えると神奈川県で川崎沖縄県人会が設立したのはその翌年。写真と県人の歩みが重なり「こういう時代を生きてきたんだ」。年月の重みを実感し、苦心惨憺(さんたん)であっただろう先人への感慨が沸き起こった。

 宮古島で生まれた。郷里の風景で思い出すのは人頭税石だ。石の高さより背丈が伸びると税が課される。「大変な思いをしてきたんだなあ」。祖先の苦労を伝える史跡が身近にあった。

 高校卒業と同時に上京することはもともと意中にあった。大学進学を志して新聞奨学生に。そして寮住まいが始まった。ちょっとしたカルチャーショックもあった。「九州の方言が飛び交い、中国の人もいる。得がたい体験だった」と振り返る。初めて見た東京は「うれしかったですね。まったく別世界。自転車で走り回った」。

 大学進学の進路を変更させたのが1995年に発生した阪神・淡路大震災。火災で覆われる街の光景を目にして、救助が追いつかないもどかしさを覚えた。上空からの救助を考えて自らに課したのがヘリコプターの免許取得。行動は素早い。オーストラリアへ出向いて、まずは軽飛行機の免許を取得した。帰国すると大学は諦め会社員に。

 転職を考え始めた2013年に結婚した。妻と共通の楽しみがお酒で気が合った。2人の職場の間をとって住んだのが川崎市だ。県人の営む居酒屋に通ううちに前会長の比嘉孝さんと出会う。比嘉さんに「一緒にやろう」と声をかけられ、県人会活動に約10年前から取り組む。

 県人会青年部の門戸を県出身者以外にも開こうと名称替えして発足したのが川崎沖縄ファンクラブだ。今はクラブの代表として「琉球舞踊、三線、エイサーを発信する舞台『綾心(あやぐくる)』をやっている」。ユーチューブでも定期的に発信し知名度アップに奔走する。川崎駅でのハイサイフェスタや横浜市鶴見での沖縄イベントもクラブの重要事業だ。

 「気負わずこれからも楽しくやっていきたい。私もそうだったが、県人会活動を知らない人も多いので発信が大切だ」。県人会100年の節目に決意を語る。一方で宮古島の父母を思えば「将来的にはUターンのきっかけも探っている」。そのためにも「次の100年をつなぐ人に目星をつけ始めている」という。自らを育んでくれた多くの人との出会い。その大切さを次世代へ引き継ぐ作業に熱を入れる。

 (斎藤学)


 ともり・みつひで 1973年6月生まれ。宮古島市(旧平良市)の出身。宮古高校を卒業し上京。東京都中央区、足立区に住んだ後、川崎市に移る。電気通信関係の仕事に従事しながら川崎沖縄ファンクラブ(KOFC)代表を務める。