1972年10月の鹿児島国体。相撲競技教員の部決勝で、大将の伊礼正治が自分より30キロも重い和歌山の選手を寄り倒し、国体初優勝という快挙を成し遂げた。「ワッーという大歓声。口笛がなり、アラシのような拍手が起こった。古堅団長と宮平総監督が興奮でうず巻く土俵ぎわに飛び出し『やったゾ!』と選手団にとびつく。およそ五百人の沖縄県人会もバンザイ、バンザイを叫び、相撲会場はいつまでも歓声が鳴り止まなかった」(琉球新報72年10月24日付)。
県相撲連盟6代会長の和宇慶勝則は当時中学生。この報道に心を躍らせた。「こんなにかっこいい人たちがいるんだ」。具志川中から中部農林高に進学し、本格的に相撲を始めた。当時は6、7人の部員がおり、他校などに出稽古に赴くこともよくあったという。
■四つに組む
とりわけ団体優勝メンバーの一人、赤嶺俊雄に憧れた。赤嶺は日体大時代に学生選手権を団体制覇し、73年若夏国体でも個人優勝を果たした。和宇慶らは辺野古の商工会議所にあった土俵までバスで通い、赤嶺ら社会人相手に稽古をつけてもらった。「信じられない迫力だった」。和宇慶は赤嶺と同じ日体大に進学し、帰省時には県内の後輩に胸を貸した。
赤嶺の取り口は、当時大相撲で活躍していた琉王の押し相撲とは異なっていた。「赤嶺さんは得意な形になったら絶対に負けなかった」。四つに組んで前に出て、豪快に投げる相撲が持ち味だった。赤嶺の相撲に憧れた理由は、体感した赤嶺の強さに加えて、「小さい頃から沖縄角力が身近にあったからかもしれない。四つに組む相撲が当たり前というイメージがあった」と振り返る。
■分け隔てなく
琉球王朝時代からの伝統文化である沖縄角力は、柔道着を身につけ右四つに組んで戦う。県体育協会史によると、戦前は県内で相撲の普及は進まず、競技者はわずかしかいなかった。明治神宮大会には沖縄角力の選手が出場し、ルールも知らず土俵外に出て負けを知らされるという始末だったようだ。
県連盟の西昇がまとめた『ウチナーぬすもうArikuri』によると、51年に沖縄角力協会が発足した。相撲部門と角力部門に分かれて共存し、大会は前半に相撲、後半に沖縄角力が行われた。72年の本土復帰を境に変化が現れる。全国に合わせて名称が県相撲連盟に変更され、全国大会はオブザーバーから正式参加になった。相撲と沖縄角力の振興に貢献した県連盟初代会長の赤嶺嘉栄が亡くなった後の77年に県角力協会が独立した。
それでも県相撲連盟4代会長の糸数昌禎は県角力協会の役員も兼ねており、糸数を中心に分け隔てなく双方の交流は続いてきた。和宇慶は「赤嶺さんや糸数さんは両方の相撲の振興に尽力した。実業家でスケールの大きな人だった。相撲には多様な形があるとわかった」と懐かしむ。
■海外でも
交流があったのは沖縄角力だけではない。和宇慶は糸数に連れられ、韓国の国技・シルム(韓国相撲)の大会に出場したこともある。シルムの交流大会は沖縄と韓国の友好親善を目的に、75年の沖縄国際海洋博覧会で開かれた。継続的に続き、2015年には和宇慶の息子の勝斗(36)が世界選手権で準優勝している。
和宇慶は「沖縄はさまざまな相撲を含むことができる器の大きさがあるのではないか。交流大会ではロシアもウクライナも20カ国ほどの世界の相撲選手が一堂に会し、土俵の上で高め合った。終わったら和気あいあいと交流を深めた。相撲を通じた平和の力を実感した」と語った。
(敬称略)
(古川峻)