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「土俵で死んでもいい」 歴代9位タイのスロー出世 4人目幕内力士 琉鵬 僧侶の道で後進育成<土俵に懸ける 沖縄力士の歩み>5


「土俵で死んでもいい」 歴代9位タイのスロー出世 4人目幕内力士 琉鵬 僧侶の道で後進育成<土俵に懸ける 沖縄力士の歩み>5 引退後は僧侶の道に進んだ県出身4人目の幕内力士の琉鵬(本名浦崎桂助)=1月29日、中城村
この記事を書いた人 Avatar photo 古川 峻

 部屋入りから苦節13年で県出身4人目の幕内力士となった琉鵬(本名浦崎桂助)(46)。入門時は環境に慣れず、周囲の力士からは「最初にやめるだろうと思われていた」と言う。両膝の手術を繰り返すなどけがと付き合いながら、土俵に立ち続けて20年近く。「やりきった」と角界を去った。その後出家し、仏門に生きがいを見いだしている。修行先の東日本大震災の被災地を托鉢(たくはつ)して回るなど「この道を死ぬまで追求したい」と人に寄り添っている。

断髪式で師匠の陸奥親方に大銀杏(おおいちょう)を切り落とされ、目を腫らした琉鵬
=2012年9月、東京都内

■押しかけ入門

 中城中3年の時、警視庁に勤める叔父に東京に呼ばれ、空港からその足で両国国技館に向かった。改修工事で立ち入り禁止だったが中に入った。その姿を監視カメラで見ていたのが、日本相撲協会の二子山理事長(初代若乃花)だ。警備員が走って来て「理事長が呼んでいる」と通された。

 ひとしきり話すと180センチの体格を見込まれて勧誘された。琉鵬はプロレスラーになる夢があり、ためらったが、叔父は知り合いがいる立田川部屋に連れて行くつもりだと説明した。隣にスポーツ紙の記者がおり、翌日の記事で「押しかけ入門」と報道された。

 紙面は学校の廊下に張られ話題に。「周りも盛り上がり、こっちも燃えてきた。力道山も輪島もいるし、浅はかだがプロレスから転向する気持ちになった」。1993年に立田川部屋に入門した。

■「勢いで勝てない」

 前相撲で2月に大阪入りした日、雪が降っていた。寒さと食事に慣れず、稽古も厳しかった。それでも「身一つで戦うことが性に合っていた」と苦しくはなかった。2002年九州場所で新十両に昇進したが、5勝10敗と1場所で陥落。「勢いでは勝てない。次は実力で上がる」と決めた。

 警察官の叔父の死が転機だった。柔道家の叔父は将来、沖縄で青少年育成に携わる夢があった。「目標にしていたし、自分の中で亡くなるはずがない人だった。この世界に導いてくれた人の分もがんばろう」。名前の政吉を取り、しこ名を琉鵬政吉に変えた。

 両国の陸奥部屋に移籍後は、出稽古が増えて経験値も増した。「この形なら負けない」。左四つの右上手で勝負し、自信を深めた。182センチ、150キロ。05年秋場所で再十両、翌秋場所で新入幕を果たした。初土俵以来、81場所の入幕は当時歴代9位タイのスロー出世だった。

■仏門へ

 前頭16枚目で臨んだ幕内は4勝11敗で負け越し、1場所で降格した。この時期からさまざまなけがに苦しみ、思うように体を動かせなくなっていた。休場もあって幕内から最下位の序ノ口まで落ちた。「限界までやり切った」。12年夏場所で引退した。

 「土俵で死んでもいい」という思いで続けてきただけに、進路はすぐに見つからなかった。悩んでいるときに、親戚の洪済寺(与那原町)の住職に「座って考えなさい」と言われ、座禅を組み、自分を見つめ直した。もともと仏教に関心があり、仏門に入ることを決意し、12年3月に宮城県松島町の瑞巌寺に修行に赴いた。

 東日本大震災の津波の爪痕が残る松島町を托鉢した。津波が押し寄せる前、仏壇の位牌(いはい)だけを持って山に逃げた人に会うなど、「仏教の奥深さを目の当たりにした」。修行僧として葬儀の手伝いなどをするうちに心は固まっていた。

 現在は伊江島の照太寺で住職をしながら、子どもたちに相撲を教えている。仏教と相撲は通じるものがあると感じている。「人を安心させる存在でありたい」。気は優しくて力持ちの力士と、僧侶の道は地続きにつながっている。

(古川峻)