佐渡ケ嶽部屋の白玉親方(元琴椿、本名渡嘉敷克之)(63)は、県出身2人目の幕内力士となり、引退後も県勢唯一の年寄株として角界に残る。昨年12月、朝稽古に励む力士をじっと見つめ、琴ノ若にぶつかる若手に「けがはないか」などと優しく声をかけていた。出世は遅く大器晩成。「少しでも関取を生み、部屋に恩返したい」と後進の育成に力を注ぐ。
部屋入りのきっかけは沖縄に来ていた佐渡ケ嶽親方(第53代横綱・琴櫻)のスカウトだった。体格がいい高校生の兄が親方と偶然出会い勧誘されたが、断って代わりに白玉を推薦した。難色を示した母をよそに、兄は「かあちゃんもオッケーしてる」と白玉にうそを伝えた。母に気兼ねしていたため「やんちゃな兄のおかげで入れた」と笑う。
相撲好きだった祖父母の影響も大きい。説得のため実家を訪ねた親方は、玄関に上がるやいなや「お仏壇に線香をあげさせてください」と手を合わせた。約1カ月前に祖母が亡くなっていたため、祖父は「ばあちゃんが横綱の手を引いてきてくれた」と感激した。
上山中で柔道に励み、中学3年で180センチあった。国士舘の付属高校など県内外の複数校からスカウトが来ていたが「迷ったけど、おじいちゃん孝行するなら相撲だな」と1976年に部屋入りした。
■分け隔てなく
県外の食事や一日2食という部屋の生活に慣れず、冬も素足で朝稽古するのがつらかった。「朝起きてまわしをつけるのが一番嫌だった」。上半身が強く上手投げが得意な一方、基本の押しが苦手だった。「腕だけでぶん回すと膝に負担がかかった」とけがにも悩まされた。
9年半かけ、85年九州場所で新十両に昇進。化粧まわしなどを沖縄後援会から贈られたが、この場所で5勝10敗とし、1場所で降格した。親方は「なぜあれだけ応援してもらって勝てないんだ」と迫り、白玉も「勝たなきゃと思っても応えきれない」と苦しんだ。
稽古でも負けるようになり、89年春場所の途中で親方に引退を告げた。親方は「これから暖かくなるし、あと3場所踏ん張って十両になってからやめたらいい」と了承した。
続く夏場所が分岐点となる。2勝後に1敗し、親方から「なに硬くなってる。やめるんだろ。勝たなくていいんだよ」と言われ、肩の荷が下りた。「勝てと言われ続けたのに負けていいのか。楽になって自分の力が出せるようになった」。無理に食べるのをやめると体重も10キロ増した。2場所連続で6勝1敗とし、秋場所で再十両を決めた。
■落とし穴
好調は続き、91年初場所で遅咲きの新入幕を果たす。30歳だった。188センチ、147キロ。入門時は過去最多の14人だった県出身力士は、92年には白玉のみになっていた。92年九州場所は13日目で10勝とし、三賞を狙える位置についた。この「かつてないチャンス」に落とし穴があった。
若花田(のちの第66代横綱・若ノ花)の押し出しで右膝を負傷し、休場を余儀なくされた。場所後は沖縄巡業が予定されていたが、入院して故郷に錦は飾れなかった。「親孝行したかった。これだけは相撲人生の悔いに残った」。休場後の春場所で4勝11敗と負け越して幕内を陥落。負けが込み、95年に引退した。
「けががなければもっと動けた」。この気持ちは若手の育て方につながっている。「基本をしっかり身につけて壊れない体をつくり、師匠の言葉をよく聞いてほしい」と語る。沖縄について「美ノ海関は小さい体でよくがんばっている。若手がどんどん後に続いてほしい。郷土の力士の活躍が楽しみ」と故郷を思っている。
(敬称略)
(古川峻)