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横綱より人気だった「沖縄の星」若ノ城 十両優勝、転落、闘病…波乱の人生支えたのは<土俵に懸ける 沖縄力士の歩み>4


横綱より人気だった「沖縄の星」若ノ城 十両優勝、転落、闘病…波乱の人生支えたのは<土俵に懸ける 沖縄力士の歩み>4 若ノ城(前列左)の幕内昇進を祝って集まった多くの関係者ら=1997年8月29日、那覇市のロワジールホテルオキナワ
この記事を書いた人 Avatar photo 古川 峻

 沖縄県出身3人目の幕内力士の若ノ城(本名阿嘉宗彦、元西岩親方)(50)は、元力士が運営する「デイサービス花咲グループ」で勤務する傍ら、インターネットテレビで相撲解説をするなど多方面で活躍している。「仕事を通じて社会の信頼を得て、相撲の普及につなげていきたい」。高校時代は柔道で五輪候補、角界入りすると「沖縄の星」として県勢初の三役昇進が期待されたが、持病の悪化やけがに苦しみ、力を出せなくなった。

デイサービス花咲グループ総合管理者の若ノ城(本名阿嘉宗彦)=2023年12月20日、東京都内

■とんとん拍子

 名将・真喜志忠男監督から体格の良さを見込まれ、古蔵中2年で柔道を始めた。監督の息子で同級生の慶治と高め合い、沖縄尚学高1年時からレギュラー入りした。1年で全国総体団体準優勝、2年の全国選抜で県勢初の団体優勝を成し遂げる。日本代表として国際大会で米国に派遣されるなど、五輪候補選手として将来を嘱望された。

 多くの大学から誘いはあったが、最終的には間垣部屋の門をたたく。志望校の選択で監督と食い違いが生じたことなどが理由だという。相撲に関心はなかったが、高1の時から部屋の勧誘を受けていた。「関取になるまで沖縄に帰れない」。強い覚悟で進路を決めた。

 1992年初場所で初土俵を踏むと、続く春場所で序ノ口優勝を果たす。場所後の休養中もランニングやウエートトレーニングで鍛え、翌年春場所で三段目優勝した。幕下上位に上がると専属トレーナーもつけた。192センチ、156キロ。得意の右四つと上手投げで躍進し、とんとん拍子で出世した。

■油断

 95年秋場所で新十両に昇進し、その場所で優勝した。現在まで県出身力士の十両優勝者はいない。那覇市のパシフィックホテル沖縄で開かれた祝賀会には約1600人が詰めかけ、昇進を祝した。「沖縄の応援を感じた。幕下の時から沖縄巡業では横綱より人気だった」と期待を一身に背負った。

 だが関取になると触ったことがない大金を手にし、油断した。高3の部活引退後に発症した糖尿病を悪させてしまった。それまでは運動量で病状を抑えることができていたが、酒の付き合いが増えたことでごまかしが効かなくなった。これまでも時期によって症状が現れるなど「長い間ぎりぎりの状態で戦っていた」。

 2年間足踏みした後に、97年秋場所で新入幕する。だが自身最高位の前頭6枚目で臨んだ98年春場所で5勝10敗と負け越し、その後は膝のけがにも苦しんで転落した。「糖尿病の血行障害で土俵に足がついている感覚がなかった。踏みとどまることができなくなっていた」。99年秋場所で十両に降格し、2004年に引退した。

■母がドナーに

 廃業後は準親方となり、05年に西岩親方を襲名した。だが、糖尿病による網膜症が目に現れるようになっていた。07年に日本相撲協会を退職し、会社勤めをしている時、5年後生存率30%の腎不全と診断された。結婚して子どももいた。「目の前が真っ暗になった」

 母の恵子が希望してドナーになり、腎臓の移植手術をした。インスリン注射など現在も治療は欠かせないものの、病状は回復した。「落ち込んだ時もあったけど、前向きに捉えないといけない」。その後、後輩の力士からの熱烈な勧誘を受け、力士のデイサービス事業に参加した。

 力士時代は沖縄の言葉をからかわれるなど「言葉の壁があった」という。「自分は笑われても平気だった。強くなればいい」と力に変えたものの、「萎縮して力を出せない沖縄の力士は多いのではないか」と想像する。

 郷土の力士へ「稽古量とコミュニケーションで乗り越えてほしい」とエールを送った。

(古川峻)