「辺野古新基地建設反対」の県民の民意に背を向けて、岸田政権が大浦湾側の埋め立て工事に着手した。
「国が代執行をしてきても、諦めないことが重要」と島根から訴える人がいる。推進派が首相だった1988年、完成目前の国策を凍結に追い込んだ住民運動のリーダーだ。
「島根でも諦めないことを追求してきた。あの時も、メディアからは記者会見で『本当に勝てるんですか』と聞かれたんですよ」
そう語るのは、保母(ほぼ)武彦・島根大学名誉教授(82)。闘ったのは、国が1963年に始めた中海(なかうみ)・宍道湖(しんじこ)の干拓・淡水化事業だ。事業は県選出の自民党実力者・竹下登氏らが推進。「竹下王国」とも呼ばれた島根県が国と一体となり、国への予算重点要望の1番手にしていた。
しかし、中海・宍道湖は、日本海の海水が混じり、シジミなどを育んできた日本有数の汽水域だ。海水をせき止める淡水化で、地域のシンボルである宍道湖の水質悪化への懸念が高まり、住民運動が次々と立ち上がる。「釣り好き」の経済学者だった保母さんはその中心になった。
住民団体による淡水化反対の署名に、沿岸全人口の過半数が賛同。さらに、88年1月には島根県の全有権者の23%の署名を集め、宍道湖・中海を汽水湖として保全することを含んだ景観保全条例の直接請求を突きつけた。当時の首相は竹下氏。国会で「県民全体のニーズは大変変わってきている現実は無視できない」と見直しを示唆。この年、事業の凍結が決まった。
完成目前の国家プロジェクトが住民運動によって日本で初めて止まり、「民主主義が動いた」と報じられた。この時点で、759億円の事業費が投じられていた。
「世論の勝利であり、住民の疑問・主張にしっかりした科学的根拠を提供した学問の勝利だった」と保母さんは振り返る。民意の勝利を可能にしたものは何だったのか。
(南彰)