青年学校半ばで壕掘り作業 日本兵と間違われ兄を失う 太田康子さん<未来に伝える沖縄戦>


青年学校半ばで壕掘り作業 日本兵と間違われ兄を失う 太田康子さん<未来に伝える沖縄戦> 戦争体験を語る太田康子さん=2日、沖縄市内(喜瀬守昭撮影)
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 沖縄市宮里に住む太田康子さん(97)(旧姓・座間味)は、本部町伊豆味で生まれ育ち、1945年の沖縄戦では自宅近くの山の中を家族と一緒に逃げ回りました。収容所ではマラリアに苦しみました。康子さんの話をコザ高校1年の喜屋武晃生さん(16)と佐久田幸汰さん(16)が聞きました。


 《康子さんは1926年10月30日に本部村(現本部町)伊豆味で座間味家の14人きょうだいの7女として生まれました》

 太平洋戦争が始まった41年12月、伊豆味の青年学校に通っていました。当時は、学校の先生たちも「日本が相手の軍艦を沈没させた」という話ばかりで日本が勝つと思っていました。

 学校では男子生徒だけでなく女子生徒も竹やりや、ほふく前進など軍事教練をしていました。

 《1944年夏以降、伊豆味に日本軍が駐屯するようになります。住民は陣地構築に駆り出されます》

 陣地構築といっても、ただ作業をするという感じで戦争への恐怖心はありませんでした。私は壕を掘る手伝いなどをしました。

 ところが、伊豆味の県道付近には大きな石があって少しずつしか壕を掘ることができなかったので、日本軍の工兵隊は掘るのをやめてしまいました。また、10月10日までは伊豆味の西にある辺名地で銃砲隊の陣地づくりに徴用されましたが、空襲で陣地が破壊されてしまいました。

 12月22日から45年の1月1日までは伊江島で徴用されて日本軍の陣地整備や壕を掘る作業の手伝いをしました。お墓の中にゴザ一枚を敷いて、トイレも水もない場所で寝泊まりしながら働きました。

 本来なら徴用は2週間ほどですが、当時の日本兵が「(戦がひどくなって)今回のお正月が家族みんなで過ごす最後のお正月になるだろう」と思ったのか、伊江島での徴用は約10日間で終わって、大みそかには伊豆味に帰れることになりました。

 伊豆味に戻ってからは芭蕉敷というところで日本軍の陣地整備をしていました。3月22日まで働いていましたが、翌日の23日からは米軍の空襲が始まりました。日本兵は私たちに「家で待機しておきなさい。空襲がおさまればまた働けるようにする」と言っていましたが、45年4月1日に米軍が沖縄に上陸したので、それからは軍の徴用には行っていません。

※続きは12月20日付け紙面をご覧ください。