prime

モンパチ、HY、Cocco…次々と“大爆発”「カンブリア」はなぜ起きた? 地元FM局が語る、沖縄の音楽シーン50年


モンパチ、HY、Cocco…次々と“大爆発”「カンブリア」はなぜ起きた? 地元FM局が語る、沖縄の音楽シーン50年
この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子

1972年の日本復帰から現在までの沖縄音楽シーンをまとめた「オキナワミュージックカンブリア」(ボーダーインク)が8月、発刊された。同書は沖縄のラジオ局「FM沖縄」が日本復帰50年の節目に放送した同名の特別番組を再構成したもの。タイトルの「カンブリア」は、全国的にヒットしたバンドが次々登場し、多様なジャンルの音楽が興隆した1990年代後半から2000年代の沖縄を、動物が爆発的に数や種類を増やした「カンブリア紀」になぞらえたもの。人気番組「ゴールデンアワー」ディレクターでパーソナリティの西向幸三さんに、FM沖縄と音楽の関わりや「カンブリア」時代の沖縄の音楽シーンについて聞いた。(聞き手・田吹遥子)

―復帰50年の2022年、FM沖縄で特別番組を企画した経緯は。

 沖縄の本土復帰50年という節目の年。FM沖縄としても何かやらないといけないだろうと。これまでFM沖縄として“ミュージックステーション”(という立ち位置)を標榜してきたので、やはり音楽に焦点を当てるべきだろうと。ただ、民謡にはあまり携われていないので、民謡以外の音楽シーンを改めて本土復帰から振り返ってみようとなりました。

 一方で、私たちの先輩たちがずっとミュージシャンをサポートしてこの沖縄の音楽シーンを盛り上げてきた歴史があるので、改めてそれを再確認して、次世代の若い制作者に伝えたいという気持ちがありました。

FM沖縄の本社ビル=浦添市小湾

―FM沖縄が“ミュージックステーション”になっていることを、9月1日に開催された同局の40周年ライブでも感じました。開局40年、どういう歩みがあったのか。

 (前身の)極東放送が1984年にFM化される時はまだ「FMって何よ」という時代だった。立ち上げとしては非常に苦しい時期が長かったと思う。それから「ハッピーアイランド」「サザンステーション」「ポップンロールステーション」という人気番組が出てきて、段々とステレオでちゃんといい音楽が聞けるよねみたいなのが浸透して、人気が徐々に出てきた。また、私たちの一つの利点としては、報道局がないのでエンターテインメントに特化できたというのもあります。

―次々と全国的なヒットを飛ばすことになった沖縄のインディーズバンドシーンの盛り上がりはどこから

 ハードコアバンド「地獄車」とかの存在が大きい。当時、メディアが相手にされなくなったんですよね、この子たちに。 ちっちゃいフライヤーを服屋さんとかに置いて人を集めていた。それで、こちらも若者のシーンに全く蚊帳の外な状態になってしまっているというという危機感を覚えて。タワーレコードさんと情報をやり取りしながら、インディーズバンドを中心としたイベントを開催しました。

骨太なライドロックで会場を沸かせる地獄車=2015年3月、Output

 そのあたりから地獄車のライブのオープニングアクトとかをやっていたモンゴル800(モンパチ)がそこから火がついた。当時高校生たちが宜野湾市のライブハウス「ヒューマンステージ」とかでコピーバンドを始めて、そのうちオリジナルを作る子たちが出て、モンパチが出てきてという流れ。そのあたりを「ポップンロールステーション」で長年ディレクターを務めた東風平朝成がきちんと追っかけた。当時、できる限りストリートやライブハウスに顔を出して実際に見ていた。

 90年代の沖縄はハードコアシーンもあったが、ヒップホップシーンも出てきた。さらにそこからジャパレゲがムーブメントになる。僕は大体ずっと現場にいたんですけど、 あの辺の盛り上がりはすごかったですね。とにかくもう何やっても面白い、楽しいみたいな時代がありました。

―西向さんがディレクターとして関わったのはその頃

 僕が入社したのが1995年だったかな。ずっと夜番組の仕事をしていた。僕らがまず現場に行って「いい」と思った曲を夜の番組でどんどんかけた。メーカーからのデビュー前にどういう形で彼らを応援していくかみたいな相談にも乗りながら、まだデビュー前のインディーズの曲をかけた。その曲を昼番組の「ハッピーアイランド」でもかけるようになったら、みんなに知られるようになるの。そしたらじゃあ次行こうみたいな。

ヒューマンステージで演奏するモンゴル800=2008年8月、宜野湾市

―発掘する仕事。

 僕らのは発掘というか、いわゆるデビュー前の人たちをどう応援するか、です。

―モンパチが1999年にファーストアルバムを発売して、2000年にはHYの結成、デビューと続きました。

 モンパチの後にHYがまたストリートから出てきて、もうさすがに“二匹目のどじょう”ぐらいまでだと思っていたら、3匹目でORANGE RANGE(オレンジレンジ=2001年結成)。そこからはメジャーの青田買い大作戦ですよ。(メジャーレーベルなどの)大人がいっぱい沖縄にやってきた。うまくいった子たちもいれば、うまくいかなかった子たちもいるのは見てきましたね。

 でもオレンジレンジの後もバンドブームは続いて、D-51、HIGH and MIGHTY COLOR(ハイアンドマイティカラー)とか。本部町で仲宗根陽さんが始めた無料スタジオ「あじさい音楽村」からはHearts Grow(ハーツグロー)とか、ステレオポニーとか。

HYの路上ライブに詰めかけた大勢の観客=2003年9月、北谷町美浜

―一時代を築いていますよね。

 主に90年代後半から2000年代にかけて、全国のラジオ局を見回しても、こんなに後から後からヒット曲が出た県なんてない。その時代ど真ん中で30代、40代に仕事をできたことはものすごく幸運だと思います。当時の状況を「カンブリア紀みたいな状況」と話していたんです。いろんなジャンルで全国的なバンドも出てきて、大爆発していたよねと。それで番組のタイトルを「オキナワミュージックカンブリア」にしました。

―90年代後半から2000年代の「カンブリア紀」に導いたものは何だったのでしょうか。

 当時、よく県外のメーカーに「なんで沖縄はこんなにすごいんですか。何が違うんですか」とインタビューを受けるようになった。そこから私たちの中で答えを探していたというか、ずっと答え合わせをしていました。

数々の人気アーティストが生まれた「カンブリア紀」について語った西向幸三さん=6日、浦添市のエフエム沖縄

 やはり、元々民謡や古典、沖縄に根強く文化として残っている沖縄の音楽をやる人たちが当たり前にいて。そこに米軍の駐留によって出てきたアメリカ文化と沖縄ロックとの融合とかがちゃんと土着としてあって。それが90年代後半から2000年につながっているのだろうとというのは、あくまでラジオディレクターの視点として、ずっと僕らの中であったんです。それで今回、改めてそこを振り返ろうと。

―西向さんがディレクターとして番組に関わった際は高校生だったモンパチやHY、オレンジレンジは今や沖縄を代表するバンドになっている。

 今この時期にちゃんと第一線でやれてるっていうのは、やっぱライブなんですよね。(彼らが)ライブでお客さんを感動させられるということを改めて今回の40周年フェスで再確認しましたね。20年ずっと一線にいられるってなかなかないこと。それはやっぱりもう歌の力、音楽の力、バンドの力もあるんですけど、やっぱライブでそれをちゃんと表現できるということだと思う。

ライブで演奏するORANGE RANGE=2004年11月、沖縄市

―開局40周年のライブは盛り上がった。

 今回改めて(大トリを務めた)BEGINもすごいと思った。「恋しくて」でメジャーデビューした後、全然売れない時期があって。本当に厳しい時期があった中でこれだけ続けてるのは本当にすごい。ライブで改めて聞いて響くものがある。2000年にリリースされた『BEGINの島唄~オモトタケオ~』は沖縄ポップスにとってすごく大きな存在だったと思うんですよね。

―沖縄の音楽の独自性は何だと思いますか。

 感情をストレートに表現できるっていうことかなと思っていて。あんまり難しいことを考えすぎない。まっすぐに人にメッセージを伝えられるところなんじゃないかな。

海外のフェスにも出演するなど活躍がめざましいAwich=2023年8月、沖縄市

―今の沖縄の音楽はヒップホップをはじめとして新しい流れが生まれているように見えるが、どう見ていますか。

 Awich(エーウィッチ)はもう唯一無二。英語とうちなーぐちを全部チャンプルーでやっていたんで天才だなと思ったけど、今やこんなに大ブレイクした。

 でも基本的には一緒ですよ。音楽性は違ってもやっぱりメッセージ性と言うか沖縄の人って独特のフローみたいのがあって。しまくとぅばを使えるのも大きいし。でもその一方で、HOME(ホーム=2020年結成の3人組バンド)やTOSH(トッシュ=2020年に活動を開始したソロアーティスト)とか若い子たちから、打ち込みで作る“デスクトップミュージック”みたいな、都会的な音楽が出てくるっていうのもまた面白いなと。

 今は本当に細分化している。そういう形で続いていくんじゃないかと思う。それぞれが好きな音楽のジャンルで、それぞれの音楽を。そこで沖縄の音楽の良さと言ったら、最終的に沖縄に生まれ育ったぐらいしかないですよ。土、風、空気が生んだものとしか言いようがない。

HOMEの(右から)seigetsu、o―png、shun=4月5日、那覇市

―今回番組を本にまとめた。沖縄の復帰後の音楽シーンを知る教科書的な内容になっている。特にどういう人たちに読んでほしいですか。

 一番はやっぱり“ラジオ屋さん”に読んでほしいかな。こういう形でラジオが音楽と関わることができると知ってほしい。

―今後やりたいことは。

 やっぱりFMラジオ局のディレクターで一番楽しいのは、人より先に面白い音楽に出会えて、こんな面白い音楽やアーティストがいるよって(ラジオで)オンエアできること。ものすごく楽しい瞬間なんですよ。それはやっていくだろうし、やっぱりもう1回ちゃんと現場に行きたいなって。 ハコ(箱=ライブハウス)に足を運ぶ、ライブに足を運ぶ。それはどんな音楽でもいいんです。