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辺土名高校生いこいの場「安里屋」 スラムダンクのモデルになった名将の実家だった<高校前メシ>


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開店から70年あまりとなる安里商店。「安里屋」の愛称で辺土名高校の生徒に親しまれている=大宜味村饒波

 沖縄の最北端にある県立高校・辺土名高校。そのすぐそばに安里商店という小さなお店がある。生徒に弁当や飲み物、菓子を売っている。店ができて70年余り。辺土名高と共に歴史を刻んできた。生徒や卒業生は「安里商店」とは呼ばない。親しみを込めて「安里屋」と呼んでいる。(編集委員・小那覇安剛)

■「おばあちゃんと孫」のよう

 平日の正午すぎ。学校の昼食時間がやってきた。生徒が続々と安里家にやってきた。「おばさん、おばさん」。狭い店内に生徒の声が飛び交う。入り口の外にも弁当を求める生徒が待っている。

「安里屋」の店主、安里秀子さん。自身も辺土名高校の卒業生。辺土名高校生みんなのおばさんだ=大宜味村饒波の安里商店

 おばさん―店主の安里秀子さんはせわしそうに商品棚の向こうで動き回る。「はい、はい、これね」。秀子さんは生徒の名前を覚えている。まるで、おばあちゃんと孫のようだ。「私の年は聞かないでね」と笑う。

 辺土名高校の卒業生。16期である。弟は27期の安里幸男さん(67)。1978年の高校総体で辺土名高バスケット部を全国3位に導いた名将で、スラムダンクの登場人物のモデルにもなった高校バスケ界の有名人だ。

 先生もやって来た。藤木淳平さん(33)だ。福岡県出身で辺土名高の61期。2001年に創設された環境科で学び、野球部で汗を流した。

安里秀子さん(右)と辺土名高教諭の藤木淳平さん。高校時代から「安里屋」の常連客だった=大宜味村饒波の安里商店

 「安里屋には世話になりました。お昼は毎日、安里屋のお弁当。野球部も土、日は弁当を食べて練習しました。当時、部員は40人いました。朝、40個の弁当を注文するんです」

 現在の野球部員は1人。他の高校と連合チームをつくって大会に出場する。生徒はかなり減った。

■村長の思い出は「ラーメンに生卵」

 秀子さんによると、安里屋の始まりはこうだ。

 1946年2月、国頭村辺土名に男子部、大宜味村喜如嘉に女子部と分かれて開校した辺土名高校は47年5月、現在の大宜味村饒波に移設・統合される。その際、海側に面した数軒の民家を内陸側に移築することになった。そのうちの1軒が秀子さんの家だった。

 「饒波の住民が協力し合って家を取り壊し、木材を運んで建て直しました。その時、瓦が割れてしまったので萱葺きの家になりました。その後、両親が始めたのが安里商店です」

 高校のそばにできた安里屋は生徒に昼食を提供する場となった。一時は生徒数が800人に達した辺土名高。昼食時、安里屋は大忙しだった。「弁当を買いに生徒が大勢集まりました。『安里屋戦争』と言っていたくらいです」と秀子さんは語る。
 

店内に並ぶ写真や賞状。辺土名高校の歩みを刻んでいる=大宜味村饒波の安里商店

 生徒と共に辺土名高の歴史を刻んできた安里屋。「私は先生たちよりも辺土名高校の歴史を知っていますよ」と秀子さんは話す。店内には卒業生の写真や寄せ書き、スポーツ大会でもらった賞状、生徒の活躍を報じる新聞紙面があちこちに貼られている。店そのものが辺土名高の沿革図だ。

 歴代の卒業生も安里屋の思い出を楽しく語る。

東村長の當山全伸さん。「おなかがすいている時は安里屋でパンを買いました」と話す=東村平良の東村役場

 東村長で22期の當山全伸さん(70)は「おなかがすいている時は、いつも安里屋でパンを買いました」と話す。

 国頭村長で33期の知花靖さん(61)も在校時を懐かしむ。
「安里屋でラーメンや弁当、ぜんざいを食べました。食堂ではパンや雑貨類を売っていました。夏場に飲むサイダーはおいしかったな。寒い日に食べるラーメンもおいしかった。卵を一つ、麵の上に落としてね」

国頭村長の知花靖さんは安里屋の常連。「サイダーとラーメンがおいしかった」=国頭村辺土名の国頭村役場

■大人気「安里屋の幕の内」オリジナルの歌も!

 20年ほど前、生徒に親しまれてきた店にちなんだ歌も生まれた。タイトルは「安里屋の歌」。こんな歌詞だ。

 「辺高そばの小さなお店/辺高生徒のいこいの場 たまり場/その名は安里屋 安里商店」

 歌を作ったのは56期の山城信吾さん(38)と山川隼平さん(38)だ。サッカー部員だった2人。もちろん安里屋に通った。

安里商店の前に設置された自動販売機には「ゴマまんじゅう」のオリジナル曲「安里屋の歌」の歌詞が記されている=大宜味村饒波

 「日曜日以外は、ほぼ毎日行きました。ささみフライとおにぎり、50円の紅茶を買って食べていました」と山城さん。
 山川さんは弁当を買った。
 「朝、弁当を注文して、昼行くと、狭いカウンターに弁当が並んでいました。カレー弁当やミックス弁当をよく食べました。ミックス弁当はささみフライや小さなハンバーグなどいろいろ入っているお得セット。安里屋の幕の内みたいなものです」

 サッカーをしながら2人は音楽に親しみ、ギターを弾いていた。当時よく聞いていたのは「ゆず」。自分たちも何かやりたいと思い立ち、フォークデュオ「ゴマまんじゅう」を組んだ。山川さんの実家が営んでいた中華料理店「やまかわ軒」の人気メニューにちなんだ。

辺土名高校在校時に作った手製の歌詞カード。「安里屋のうた」も「ゴマまんじゅう」のオリジナル曲の一つ

 「ゆず」のコピーから始め、オリジナル曲も生まれた。「安里屋の歌」もその一曲。山城さんの作詞作曲で山川さんと一緒にアレンジした。「おばちゃんに聞いてもらったら、とても喜んでくれました」と山城さんは語る。

 学校の行事で2人は歌った。地域のイベントに出演したこともある。卒業後、山城さんは那覇で暮らし、就職情報誌の企業で働いた。現在は浦添市前田の城紅型工房の店長として営業・企画を担当している。「高校時代の音楽活動が今の仕事に生きています」

現在、紅型工房で店長を務める山城信吾さん。「安里屋で濃密な時間を過ごしました」=浦添市前田の城紅型染工房
国頭村の観光施設「大石林山」で調理師として働く山川隼平さん。「今も曲作りを続けています」=国頭村奥間の道の駅ゆいゆい国頭

 山川さんは福岡で音楽活動を続けた。帰郷後、調理師免許を取得し、「やまかわ軒」を手伝った。現在は国頭村宜名真の「大石林山」で調理を担当している。
 「今はコロナで厳しいけれど踏ん張り時です」

 実は2017年、「ゴマまんじゅう」は17年ぶりに復活している。2人は大宜味小中学校資金造成チャリティーライブなどで歌ったという。山城さんは「高校の時は落ちこぼれで退学しようと思ったこともあるけれど、音楽によって自信がつきました」と振り返る。山川さんも「年下の世代も僕たちのことを覚えていてくれました。うれしかったですね」と話す。今も個人で曲作りを続けている。

 卒業から20年。今も連絡を取り合う2人にとって安里屋はいこいの場であり続ける。「濃密な時間を安里屋で過ごしました。コロナになる前は時々、店に顔を出しました」と山城さん。「安里屋のおばさんからフレンドリーに声を掛けてもらいました。この前、子どもを連れて遊びに行きました」と山川さんは笑顔を浮かべる。

■生徒が来る限り「店は閉めない」

 「卒業生がよく来るんです。ウーマクーだった子ほどハートがあるんですね」と秀子さんは語る。親心だろうか。

 両親は他界し、1人で店を守ってきた。生徒が来てくれる限り、安里屋を続けるつもりだ。

 「母は生徒のことをいつも考えていました。入院した母を見舞った時も『お店はどうしたの。生徒に迷惑を掛けてはいけないよ。早く帰りなさい』と言われました。両親が大事にしてくれた店だから、閉められません」

 カウンターに立つ秀子さんの後ろには両親の写真が飾られている。

 安里屋でタコライス弁当を買い、近くの海岸で食べた。卵焼きが載っている。黄身がタコスのソースに絡まって濃厚な味がした。安里屋のタコライス弁当、おいしかった。

「安里屋」のタコライス弁当。タコスソースと目玉焼きの相性はぴったり

 

高校前メシ

あなたが高校時代、お昼休みや放課後に通っていたお店はどこですか?思い出の「高校前メシ」を記者が訪ねました。WEB限定の連載です。

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