首里城が燃えた日から、31日で2年が経過する。関係者は「あの日」以来、再び首里城を建てるために議論、研究、検証を重ねてきた。焼失前の首里城は歴史的資料を一から集め、手探りの中で再建されたが、新しい首里城はその土台を利用しつつ、新たな知見も加えて生まれ変わる。今度の首里城は、焼失前の首里城のコピーではない。最新の防災機能を備えながら、琉球王朝時代の姿に、さらに近づく。
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再建へ 琉球併合前の姿を目指す
国の「首里城復元に向けた技術検討委員会」が目指しているのは、1879年の「琉球処分」(琉球併合)以前の首里城の姿だ。これは1992年に正殿が復元されたいわゆる「平成の復元」と共通している。ただし、新資料として首里城正殿を撮影した最古の写真の存在が昨年11月に明らかとなったことを受け、同委員会は、正殿の大龍柱の向きを含め、細部について分析し再検証している。
新資料として確認された首里城正殿の写真は、1877年に撮影されたもの。当時、フランスの巡洋艦で那覇港に寄港した海軍少尉(後に中尉に昇進)のジュール・ルヴェルテガ(1850~1912)が撮影した。同巡洋艦のアンリ・リウニエ艦長のひ孫で、フランス海軍史研究家のエルヴェ・ベルナール氏が現在、写真を所有している。
神奈川大学の後田多(しいただ)敦教授が昨年11月にシンポジウムで同写真を紹介した。1992年の復元では相対向きで設置されていた正殿前の大龍柱が、新たに明らかになった1877年の写真では正面向きとなっていた。これを受けて国の「首里城復元に向けた技術検討委員会」でも大龍柱の向きを改めて検討する方針だ。
1877年の写真は、大龍柱だけでなく、正殿2階にある装飾の模様や正殿が写真左側の北殿とつながっている状況、御庭(うなー)の浮道なども確認できる。
同検討委員会は新資料の写真を含め、1992年の復元以降に明らかになった研究成果も反映させながら新たに復元する首里城の具体的な設計作業を進めている。
正殿独特の赤 突き止めた、久志弁柄
首里城正殿独特の赤色には、久志間切(現名護市久志)で採取された弁柄(赤い顔料)が使用されていたという記録がある。前回の復元時は久志弁柄の正体を突き止められず、使用されなかった。今回は弁柄の正体が久志の水辺に存在する鉄バクテリア由来であることが分かり、使用に向けた調査が進む。
尚家が保存する尚家文書によると、1846年に首里城を大規模修理した際、久志間切の役人に弁柄33斤(19.8キロ)を調達するよう指示した記録が残っている。だが、この弁柄が何なのか、1992年の復元時は分かっていなかった。
首里城を管理・運営する沖縄美ら島財団は、92年の復元後も調査を続け、名護市久志の水中に存在する鉄バクテリアの分解物が「久志弁柄」であることを突き止めた。乾燥させて粉末にし、桐油と混ぜて建物に塗る。
現在、久志弁柄を使った塗料を実際に塗り、耐久性を調べる実験が始まっている。新しい正殿の色は、王朝時代の色彩に近づくかもしれない。
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