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那覇・楚辺で雑貨店構える 瀬長フミさんと亀次郞さんの体験(7) 母と父の戦争 <読者と刻む沖縄戦> 


那覇・楚辺で雑貨店構える 瀬長フミさんと亀次郞さんの体験(7) 母と父の戦争 <読者と刻む沖縄戦>  うるま新報の社員。前列中央が瀬長亀次郎さん。右隣は編集長の池宮城秀意さん
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 疎開地の宮崎県延岡市から福岡を経て沖縄に戻った不屈館館長の内村千尋さん(78)=那覇市=らきょうだいと母フミさん、父で「うるま新報」社長の亀次郎さんは玉城村(現南城市玉城)親慶原で暮らします。

 親慶原一帯は一時、米軍政府や沖縄民政府が置かれ、行政の中心地となりました。
 亀次郎さんは社長業と並行して政治活動に取り組み、1947年7月、沖縄人民党結成に参加します。この年の末から那覇市楚辺で暮らします。
 「うるま新報」は48年7月、石川から現在の那覇市三原に移りました。楚辺の瀬長家の後ろには社宅が設けられたといいます。新聞社の給料だけでは生活できず、フミさんは行商などをして生活を支えました。

 その頃から亀次郎さんの政治活動に対し、米軍は圧力をかけます。亀次郎さんはやむなく49年8月3日、社を去ります。

 8月6日付「うるま新報」に載せた「退社声明書」で、亀次郎さんは「私は民族解放運動の一ぺい卒として琉球民族戦線結成のため全身全霊」を打ち込む覚悟を表明しました。52年、立法院議員選挙に立候補し、当選しました。

 同じ年、フミさんは楚辺の自宅のそばに雑貨店を開きます。開南小学校に通っていた千尋さんは店番を任されました。

 《この地で小さな雑貨店を開き、生活を支えていました。私も学校から帰ると店番をするのが日課でした。》