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基地内に打ち込んだ「自治のくさび」役場の新庁舎 元読谷村長・山内さん<沖縄・憲法と自治>下


基地内に打ち込んだ「自治のくさび」役場の新庁舎 元読谷村長・山内さん<沖縄・憲法と自治>下 読谷村長として村土を取り戻す戦いを続けた24年間を振り返る山内徳信さん=4月22日、読谷村
この記事を書いた人 アバター画像 安里 洋輔

 自治のくさびを打ち込んだ」。穏やかだった元読谷村長の山内徳信さん(89)の口調に、にわかに力がこもった。

 1997年、読谷村役場の庁舎を米軍読谷補助飛行場に移設し、その後の返還に結びつけた経緯を尋ねた時のことだ。

 2012年に参院議員の任期を終えて政界を引退。柔和な表情に、一線を退いた後の静かな暮らしぶりがうかがえる。ただ、この時ばかりは、24年間、読谷村長として住民の自治を取り戻すために米軍、日本政府と対峙(たいじ)した当時の記憶がよみがえったようだった。

 95年の米兵による少女乱暴事件を受けて、当時の大田昌秀知事が首長に代わって米軍用地の強制使用の手続きのための公告・縦覧の代行を拒否した。山内さんは、その以前から米軍に土地を明け渡す署名を拒否する抵抗を続けていた。

 同年12月24日付の琉球新報の記事で、山内さんは「地方自治の究極の仕事は、住民の生命と財産を守ることだ」と言い切っている。

 村民の自治を取り戻すために続けた抵抗の継続が、基地内に「自治のくさび」として築いた新庁舎に結実した。

 あらがう姿勢の原点となった教員時代の忘れられない記憶がある。

 米統治下の65年6月、読谷補助飛行場での米軍のパラシュート降下訓練中にトレーラーが落下し、11歳の少女が死亡した。一報は研修先の静岡県で知った。

 「知らせを受けた静岡の空は米軍機の爆音が響く沖縄と違って静かだった」。その景色のコントラストが「なぜ沖縄だけが」という怒りをかき立てた。

 「村民が帰りたいと願ったふるさとの本来の姿を取り戻すことが大事だと思っていた」

 72年の復帰時に約73%を占めた米軍基地の占有率は、現在約36%にまで下がった。山内さんと村民が積み重ねた「自治」を求めた抵抗の成果だ。

 沖縄戦を知る山内さんは政府からの二度の叙勲の打診を断っている。「戦争で多くの県民を犠牲にした政府から勲章はもらえない」。その言葉に、権力にあらがい自治をつかみ取った確かな意思が今も息づいている。 (安里洋輔)自治のくさびを打ち込んだ」。穏やかだった元読谷村長の山内徳信さん(89)の口調に、にわかに力がこもった。

 1997年、読谷村役場の庁舎を米軍読谷補助飛行場に移設し、その後の返還に結びつけた経緯を尋ねた時のことだ。

 2012年に参院議員の任期を終えて政界を引退。柔和な表情に、一線を退いた後の静かな暮らしぶりがうかがえる。ただ、この時ばかりは、24年間、読谷村長として住民の自治を取り戻すために米軍、日本政府と対峙(たいじ)した当時の記憶がよみがえったようだった。

 95年の米兵による少女乱暴事件を受けて、当時の大田昌秀知事が首長に代わって米軍用地の強制使用の手続きのための公告・縦覧の代行を拒否した。山内さんは、その以前から米軍に土地を明け渡す署名を拒否する抵抗を続けていた。

 同年12月24日付の琉球新報の記事で、山内さんは「地方自治の究極の仕事は、住民の生命と財産を守ることだ」と言い切っている。

 村民の自治を取り戻すために続けた抵抗の継続が、基地内に「自治のくさび」として築いた新庁舎に結実した。

 あらがう姿勢の原点となった教員時代の忘れられない記憶がある。

読谷補助飛行場のパラシュート降下訓練に抗議する読谷村長在任時の山内徳信さんら=1981年5月9日、那覇防衛施設局
読谷補助飛行場のパラシュート降下訓練に抗議する読谷村長在任時の山内徳信さんら=1981年5月9日、那覇防衛施設局

 米統治下の65年6月、読谷補助飛行場での米軍のパラシュート降下訓練中にトレーラーが落下し、11歳の少女が死亡した。一報は研修先の静岡県で知った。

 「知らせを受けた静岡の空は米軍機の爆音が響く沖縄と違って静かだった」。その景色のコントラストが「なぜ沖縄だけが」という怒りをかき立てた。

 「村民が帰りたいと願ったふるさとの本来の姿を取り戻すことが大事だと思っていた」

 72年の復帰時に約73%を占めた米軍基地の占有率は、現在約36%にまで下がった。山内さんと村民が積み重ねた「自治」を求めた抵抗の成果だ。

 沖縄戦を知る山内さんは政府からの二度の叙勲の打診を断っている。「戦争で多くの県民を犠牲にした政府から勲章はもらえない」。その言葉に、権力にあらがい自治をつかみ取った確かな意思が今も息づいている。

 (安里洋輔)