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問題解決へ早急議論を 回復者の平良仁雄さん講話<第1回沖縄県ハンセン病問題シンポジウム>


問題解決へ早急議論を 回復者の平良仁雄さん講話<第1回沖縄県ハンセン病問題シンポジウム> 体験談を話す平良仁雄氏
この記事を書いた人 琉球新報社

 ハンセン病回復者とその家族が地域で当たり前に暮らせる社会作りに向けた「第1回県ハンセン病問題シンポジウム」(県主催、共催・琉球新報社)が10月18日、那覇市泉崎の琉球新報ホールで開かれた。ハンセン病への根拠のない偏見や差別を生んだ強制隔離政策などを定めた「らい予防法」の廃止(1996年)から28年が経過しても、今なお偏見・差別が残る現状を受けて、初めて県が主催した。回復者やその家族が登壇し、いわれのない差別によって地域社会で安心して暮らせない現状を報告した。また、回復者の高齢化に伴う支援の在り方も議論した。シンポジウムの内容を詳報する。

 らい予防法に激しい怒りを持っている。1907(明治40)年から、96年に法律が廃止されるまでの90年間も患者は隔離された。なぜ隔離されたのか。諸外国からハンセン病患者の放置を非難された国は、ハンセン病患者を国の恥、国策に不必要な国辱として、治療ではなく隔離を優先した。

 らい予防法は療養所への強制収容が目的。沖縄では住民の反対があり、どこにも療養所を造ることができなかった。沖縄本島では38年にようやく療養所ができた。全患者収容となり、家で隠れて暮らしていた私も強制隔離された。

 43年に米国開発の特効薬プロミンが発表され、49年には沖縄でも治療が始まった。治る病気になったのに、新しくなったらい予防法は患者を生涯隔離とした。それに関連して「無らい県運動」が戦前戦後の2回あった。競って患者を警察や保健所に密告し、療養所に送り込んだ官民一体の患者狩り運動だった。

 今の沖縄は、療養所を出た退所者と、入所せずに病気が治った非入所者、そしてその家族が全国で最も多く生活している県だ。

 らい予防法の廃止から28年、隔離政策を違憲とした国家賠償請求訴訟の熊本地裁判決から23年、そして家族への補償を認めた判決から5年になる。そのたびごとに内閣総理大臣が謝罪したが、ハンセン病問題の解決はどこまで進んだだろう。らい予防法は今も生きている。

 親が回復者であることで離婚に追い込まれる子どもが今もいる。多くの仲間が過去を隠し、役場の窓口に行くのもちゅうちょする現状がある。私たち社会復帰者が地域で当たり前に生きられる社会にするためハンセン病問題解決推進協議会の設置を県知事に要請した。

 2022年に第1回協議会が開かれ、県のハンセン病問題への本格的な取り組みが始まった。高齢化が進んでおり、問題解決を急がないといけない。誰1人取り残さない沖縄県づくりにまい進しようではありませんか。