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なぜ差別、共に考えて 回復者家族のO・Mさん講話<第1回沖縄県ハンセン病問題シンポジウム>


なぜ差別、共に考えて 回復者家族のO・Mさん講話<第1回沖縄県ハンセン病問題シンポジウム> 登壇するO・M氏(O・M氏は希望によりプライバシーに配慮して撮影しています)
この記事を書いた人 琉球新報社

 ハンセン病回復者とその家族が地域で当たり前に暮らせる社会作りに向けた「第1回県ハンセン病問題シンポジウム」(県主催、共催・琉球新報社)が10月18日、那覇市泉崎の琉球新報ホールで開かれた。ハンセン病への根拠のない偏見や差別を生んだ強制隔離政策などを定めた「らい予防法」の廃止(1996年)から28年が経過しても、今なお偏見・差別が残る現状を受けて、初めて県が主催した。回復者やその家族が登壇し、いわれのない差別によって地域社会で安心して暮らせない現状を報告した。また、回復者の高齢化に伴う支援の在り方も議論した。シンポジウムの内容を詳報する。

 両親はハンセン病療養所に隔離されており、私はそこで生まれた。1歳を過ぎた頃から祖母やおじに預けられた。近所の人は両親のことを知っており、ハンセン病を指す差別語で呼ばれた。学校の帰りに畑の物を「盗んでこい」といじめられ、雑貨屋では「あんたには売らん」と追い返された。泣いて帰ると、おばあに「泣くなよ」と頭をなでられた。だから笑っていようと心に決めた。

 つらかったのは、親と一緒に暮らせなかったこと。父ちゃん、母ちゃんに会いに行くことだけが楽しみだった。療養所の人たちも「よく来たね」と喜んでくれた。病気の影響で顔がゆがんでいる人もいたが、怖くなかった。私を見る目が優しかったから。そこでだけ、自分らしくいられた。

 回復者の家族は、特に学校で差別された。ばい菌扱いされ、教室の風下に座らされた。先生は「仲良くしなさい」と言うだけで、取り合ってくれなかった。あのとき、あの時代の先生は今、どう思っているのだろう。

 2016年、ハンセン病家族訴訟で原告になった。回復者の大変さは少しずつ知られてきたが、家族のことは知られていなかった。国の間違った政策で親と離ればなれにされ、人として当たり前の生活ができなかった。家族が受けてきた被害をなかったことにされるのは耐えられなかった。

 ハンセン病は遺伝病ではない。しかし、私が生まれた時代には療養所で堕胎や断種を強制された。私の母も堕胎させる注射を打たれたが、失敗して私が生まれた。生まれてこられなかった子の鎮魂碑が療養所にある。そうした子どもも被害者だ。声を上げないといけないと思った。

 裁判に勝って回復者の家族であることをカミングアウトしたら、職場の人の態度が変わったり、家族と分かって離婚されたり、そんなことがいまだにある。家族が対象の補償制度を勝ち取ったのに、申請は4割ぐらいとされる。親が回復者であることを家族にも隠しているから申請できない人がいる。

 「ハンセン病は怖い」という認識が社会に深くしみこんでいる。どうすれば解消できるか、一緒に考えてほしい。