広大な米軍基地があり、街づくりに制約を受ける本島中部地域。北谷町は基地を抱えながらも、埋め立てと跡地利用で街づくりを進め、成功例に挙げられる。その源流が、1974年に策定された「北谷村振興計画」だ。人気観光地の「美浜アメリカンビレッジ」もこの計画が源流となった。構想から今年で30年を迎える。米軍基地と隣り合わせの北谷町がどのように街づくりに取り組んで来たか振り返る。
2024年3月。週末の北谷町美浜のアメリカンビレッジは、観光客や地元客でにぎわっていた。青い海を背景に自撮りをしてはしゃぐ修学旅行生や、犬の散歩がてらコーヒーを味わう人など、思い思いに過ごしている。
岐阜県から修学旅行で来た女子高生(17)は「かわいい街。どこを撮っても映える」と興奮しっぱなしだ。海風に当たりながら読書をしていた経営者の男性=兵庫県=は、2~3カ月に1回は美浜を訪れる。「学生時代にこの街に来て感動した。異国の文化を感じる」と、リラックスした表情を見せる。
北谷町は西海岸を中心に商業施設やカフェなどの飲食店が集まる人気の地だ。大東建託が実施する「街の住みここちランキング」では全国上位にランクインする。仕事やプライベートなどで刺激的で魅力ある街かどうかを聞いた「コンシャスな街ランキング」では、20年から4年連続で全国1位を維持する。海が近く多様性にあふれ、活気があることなどが評価された。
中でも人気のアメリカンビレッジ地区は、町が進めた事業で2004年に完成した。21年経済センサスによると、北谷町内の事業所は1416社、アメリカンビレッジがある字美浜には、230の事業所が存在する。町の法人税収は、同地区の動きに連動して増加する。
日本復帰の1972年、町の法人税収は154万円だったのに対し、アメリカンビレッジが完成した2004年には2億円を突破した。その後も10年のデポアイランド地区開業、13年のフィッシャリーナ地区稼働に合わせて、右肩上がりになっている。町の財政基盤も強化された。22年度県内市町村決済によると、「1」を超えると財源に余裕があるとされる「財政力指数」は0.80で、毎年那覇市に次ぐ県内2位を維持する。
アメリカンビレッジの成功もあり、発展を遂げる北谷町。かつては「顔のない街」と比喩されるほど閉塞(へいそく)感に包まれていた。
戦後、北谷町(当時は村)は米軍基地が町の65%を占めていた。町は点在する基地に分断され、めぼしい産業もなかった。住民の多くは基地従業員として働き、基地経済に依存した。
役場の行政マンによって作られた計画が、北谷の未来を大きく変えた。1974年に策定された「北谷村振興計画」だ。基本構想は72年度からの10年間で、それを基に基本計画と実施計画が立てられた。西海岸の埋め立てと基地跡地利用で土地を確保し、産業振興で街を活気づけることを描いた。
計画は歴代首長や職員によって着実に進められた。94年11月、当時の辺土名朝一町長は記者会見に臨む。アメリカンビレッジの原形となる計画を発表するためだ。「産業振興なくして町の発展はない」。町の未来を懸けた計画に、辺土名氏の表情は引き締まっていた。活気あふれ、魅力ある町にすることを求めて。
(石井恵理菜)
ニライの都市へ 北谷・振興計画50年 目次
- (1)行政マンが作った全国有数の映えスポット・美浜 「基地の町」から「魅力ある町」へ
- (2)バブル崩壊、町は1日100万円の借入利息に直面
- (3)「この角地を買いたい」塩漬けエリアが動き出した瞬間
- (4)目玉は1500台の町営無料駐車場 街づくりのテーマに事業者も呼応 「土地を買いたい」トラックに札束積む企業も
- (5)止まらない地価高騰「若者は住めない街に…」 米軍向けから需要変化 移住者、別荘、海外の富裕層投資も
- (6)4千人増の想定も住民票置かず…「投資に人気の地」のジレンマ」 基地返還で定住人口増へ
2024年(令和6年)3月に掲載された石井恵理菜記者による連載「ニライの都市へ 北谷・振興計画50年」全6回は、琉球新報デジタルプライムで読めるほかに、電子新書として読み切りで購入することができます。