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バブル崩壊、町は1日100万円の借入利息に直面 <ニライの都市へ 北谷・振興計画50年>2


バブル崩壊、町は1日100万円の借入利息に直面 <ニライの都市へ 北谷・振興計画50年>2 カラフルでおしゃれなアメリカンビレッジの町並み=3月13日、北谷町美浜(ジャン松元撮影)
この記事を書いた人 Avatar photo 石井 恵理菜

 豊かな田園風景は戦後、米軍基地へと姿を変えた。西海岸の平坦な土地は米軍に接収され、住民は起伏が激しい山側に身を寄せざるを得なかった。かつて農業で栄えた村の姿はもうなかった。

 当時村役場企画室長として北谷村振興計画(村振計)の策定に尽力した、元助役の比嘉吉光氏(85)は、復帰当時の村の風景が目に焼き付いている。「素通りする街だったわけだね。どうしてもそれを変えたかった」

北谷村振興計画の策定に携わった、元助役の比嘉吉光氏=1月23日、北谷町
北谷村振興計画の策定に携わった、元助役の比嘉吉光氏=1月23日、北谷町

 村振計は1974年の比嘉正章村政時代に策定された。基地経済から脱却し、産業開発で自立経済に移行することを掲げた。埋め立てと基地跡地利用で産業用地を確保し、街づくりを進めるように描かれた。

 早期の基地返還を求めて町、議会、軍用地地主は北谷村軍用地開放促進協議会を結成した。当時、村議会総務委員長だった元町長の辺土名朝一氏(87)は、村振計を握りしめ政府に要請に訪れたという。「観光バスが止まる街にしよう。必ずいい街になる」。この言葉が同僚議員との口癖だった。

 81年に米海兵隊のヘリ基地だったハンビー飛行場と、メイモスカラー射撃場が返還された。ハンビー地区には住宅地や大型商業施設ができ急速に発展した。一方でハンビーのヘリ部隊は普天間飛行場に移り、普天間の機能強化につながった。

「北谷村振興計画」を手に当時を振り返る、辺土名朝一元北谷町長=1月29日、北谷町

 町は返還を機に86年、桑江地先に49ヘクタールの埋め立てを実施。事業費は50億円余で、県町村土地開発公社から借り入れた。

 町は11ヘクタールを産業用地のため確保。当初テーマパーク建設を計画した県内企業に66億6千万円で一括処分する予定だったが、バブル崩壊で計画は頓挫。複数企業に土地を分割処分することにしたが、冷え切った経済情勢で企業誘致は進まず、1日100万円の借入利息が発生した。財政破綻は目前だった。

 辺土名氏は93年に町長に就任すると、企業誘致室を設置。議会からは住宅地として処分し借入金を早急に返済するよう意見が相次いだが、産業振興にこだわった。「譲れなかった。活力ある町をつくるには、企業を呼んで雇用を生むことだ」

 町は94年にアメリカンビレッジ構想を策定。複数企業で開発しても統制が取れるよう、町がコンセプトを設定した。アメリカをテーマに「安くて・近くて・楽しみのある」、日帰りできるリゾート地だ。同年11月に記者会見で計画を全国に発表した。当時の琉球新報も、イメージ図と共に経済面で報じた。

 町は複数の企業と土地処分の締結をするが、実際に進出したのは数年後だった。何もない場所への進出は企業にとってもリスクが伴い、土地は塩漬け状態だった。行き詰まった状況を突き動かしたのが、ある企業による、県内最大の映画館建設だった。

 (石井恵理菜)

ニライの都市へ 北谷・振興計画50年 目次

  1. (1)行政マンが作った全国有数の映えスポット・美浜 「基地の町」から「魅力ある町」へ
  2. (2)バブル崩壊、町は1日100万円の借入利息に直面
  3. (3)「この角地を買いたい」塩漬けエリアが動き出した瞬間
  4. (4)目玉は1500台の町営無料駐車場 街づくりのテーマに事業者も呼応 「土地を買いたい」トラックに札束積む企業も
  5. (5)止まらない地価高騰「若者は住めない街に…」 米軍向けから需要変化 移住者、別荘、海外の富裕層投資も
  6. (6)4千人増の想定も住民票置かず…「投資に人気の地」のジレンマ」 基地返還で定住人口増へ

2024年(令和6年)3月に掲載された石井恵理菜記者による連載「ニライの都市へ 北谷・振興計画50年」全6回は、琉球新報デジタルプライムで読めるほかに、電子新書として読み切りで購入することができます。