prime

復帰の日、国技館に響いた“沖縄県出身” 初の幕内力士「琉王」が語った夢<土俵に懸ける 沖縄力士の歩み>1の続き


復帰の日、国技館に響いた“沖縄県出身” 初の幕内力士「琉王」が語った夢<土俵に懸ける 沖縄力士の歩み>1の続き 相撲教室で全日本大学選手権の団体優勝メンバーらに胸を貸す琉王(右)=1971年5月31日、那覇市の牧志ウガン
この記事を書いた人 Avatar photo 古川 峻

 10日に開幕する大相撲春場所に、前頭13枚目の美ノ海(30)=本名木崎信志=(具志川中―鳥取城北高―日大出、木瀬)ら県出身11人が出場する。県内の相撲には伝統文化の沖縄角力と共存しながら発展した独自の風景がある。往年の県出身力士の姿を堀り下げると今に至るつらなりが見えてくる。

赤嶺逸男さん
赤嶺逸男さん

 沖縄が本土復帰した1972年5月15日は、大相撲夏場所の2日目だった。紫地に守礼門をあしらった化粧まわしを着け、県出身初の幕内力士、琉王(本名・神田武光)が土俵入りする。「沖縄県出身」。沖縄が“県”として初めてアナウンスされた瞬間、会場から盛大な拍手が上がった。那覇市出身で相撲評論家の赤嶺逸男(81)=東京都=は蔵前国技館の2階席で見守った。「どの力士より拍手が大きかった」。会場が復帰を祝福していた。

 176センチ、135キロの小兵だが、ぶちかましての突き、押しが強かった。鹿児島出身の錦洋との一番は、しばらくは互いに土俵上で突っ張り合うが、琉王が鋭い出足で押し出した。軍配が上がると、会場は再び大きな拍手に包まれる。赤嶺によると、それを報じた雑誌や新聞には琉球対鹿児島の対決を強調する論調もあった。「薩摩藩の琉球侵攻の歴史を意識したのだろう」と振り返る。

 琉王は復帰の日の心境について、豊見城市で「琉王展」(2014年)が開かれた際に手記をしたためていた。「初めて沖縄県と呼ばれた時は、土俵に上がった瞬間、全身に沖縄県民が応援してくれて血の気が高ぶったのを今でも思い出します」。

「外国人対決」

 那覇市出身の琉王の生い立ちは複雑だ。母の豊子は奄美大島出身で、戦後は商売のため沖縄と奄美を密航船で行き来した。琉王も小中時代の一時期を壺屋小、那覇中に通ったが、多くを奄美大島で過ごした。幼少期から徳之島出身の第46代横綱・朝潮が好きだった。

首里城の守礼門をあしらったまわし姿の琉王(川節治男さん提供)
首里城の守礼門をあしらったまわし姿の琉王(川節治男さん提供)

 部屋入りするきっかけは大島高2年の夏休み、上京して高砂部屋の朝潮を訪ねたが、巡業中で不在だった。たまたま見つけた朝日山部屋の朝稽古を窓からのぞいていると、親方の女将(おかみ)に体格の良さを見込まれ、勧誘された。そして部屋入りし、1962年11月に初土俵を踏む。

 幕下でくすぶる時期もあったが、69年夏にちゃんこをたらふく食べると、体重が10キロ以上も増した。しこ名を「琉王」に変え、70年3月場所で県勢初の新十両、同年11月場所で新入幕した。11月場所でハワイ出身の高見山との一番は「外国人力士」の対決として注目された。

同郷意識

 青空に色とりどりの相撲幟(のぼり)がはためき、櫓(やぐら)太鼓の音が響いていた。52年11月、那覇市で戦後初の沖縄巡業が行われた。参加したのは高砂部屋の力士ら約50人。当時小学生だった赤嶺は、「まるで象の行列だった」と度肝を抜かれた。

 徳之島出身の朝潮は、第40代横綱・東富士より人気があった。琉球新報の52年11月14日付の記事は、朝潮を県勢のように扱っている。赤嶺は当時の状況を「沖縄の人は同じ米国統治下の奄美出身者に同郷意識を抱いていた」と話す。奄美群島は53年12月に本土復帰した。

 沖縄の本土復帰後の72年6月の相撲専門雑誌『相撲』には、復帰の日に勝ち星を挙げた琉王のインタビューがある。本土との生活水準の差などに触れて手放しに復帰は喜べないとしつつ、相撲を通して沖縄に貢献し「同胞の関取が何人も出ることが、これからの夢」と話した。73年に県出身の最高位となる前頭筆頭まで上がった。

 76年に廃業し、東京でちゃんこ屋「琉王」を営んだが、2004年に脳梗塞で倒れた。「沖縄に帰りたい」と12年から豊見城市の施設で療養していたが、15年に東京の介護施設で亡くなった。

川節治男さん

 幼少期に奄美大島で琉王ときょうだいのように育った、いとこの川節安代(73)は「奄美の同級生からなぜ沖縄出身なのかと聞かれとても気にしていた。それくらい優しくて繊細な人だった」と人柄に触れる。夫の治男(80)は「沖縄も奄美も同じ島で同胞という意識があった。復帰の日も本土の力士に絶対に負けないという気持ちで土俵に上がっていた」と語った。(敬称略)

 (古川峻)