移民概略










世界のウチナーンチュ・人国記
 (1995年11月15日発行の別刷り特集から)
 沖縄県は日本有数の移民県である。一八九九(明治三十二)年に当山久三のあっ旋で移民26人がハワイに移住して以来、海外雄飛の機運が高まり、戦前は北、中南米、カナダ、朝鮮、台湾、中国、南洋諸島などに数多くの移民を送り出した。戦後は敗戦で引き揚げを余儀なくされた国もあったが、経済成長、国際化に伴い移住先に欧州、豪州、東南アジアなど新たな地域が加わり、県系人はいまや世界に約30万人いるといわれる。

【戦前の移民】

 
日本人の海外移住は1868(明治元)年のハワイ移住から始まったが、沖縄からの移住は1899(明治三六)年の契約移民の26人がチャイナ号でハワイへ渡航したことに始まる。




1899年、沖縄から最初のハワイ移民26人を乗せたチャイナ号

 
南米への移住は1899年の佐倉丸によるペルー移民(790人)が始まり。沖縄からのペルー移民は、1906(明治三九)年の厳島丸による第三航海の36人を嚆矢とする。
 南米移民の主流をなすブラジル移民は1908年の笠戸丸による第1次移民(781人、県人325人)に端を発する。うち160人(県人10人)はさらに南下し、アルゼンチンに再移住した。
 一方、ペルー移民の一部がゴム景気に沸くボリビアのリベラルタに流れるなど南米4カ国への移住者は後続して増えていった。
 
これと並行して米国本土、カナダ、フィリピン、メキシコ、南洋諸島…、へと広がりを見せていく。
 南米への移民船は太平洋、米国経由のコースと、インド洋、南アメリカ・ケープタウン経由のコースをとった。後者は食糧と燃料補給のために同市に寄港した。
 当時、インド洋を横切ってケープタウン経由でブラジル・サントスかアルゼンチン・ブエノスアイレスにたどり着くには50日から2カ月もかかった。
 第2次世界大戦前の海外移住は、北米、中南米とは別に、日本軍の海外進出に伴い、旧満州、朝鮮、南洋諸島、東南アジア、台湾などでも繰り広げられた。
 このようにして渡っていった移住者たちは、外務省、移民会社の記録などによると、明治初期から第2次大戦までに77万人に達した。
 沖縄からの戦前の海外移住者は7万5424人(「沖縄県史」第7巻移民から)となっている。

【戦後の移民】

 第二次世界大戦は、北米、南米の日系人に排日暴動、財産没収、収容所送りなどの辛い体験を強いた。日系移民にとっては最も暗い時代だった。しかし、移住者たちはそういう逆境にめげず、再び生活基盤を築き上げ、灰じんに帰した古里・沖縄の復興のために物心両面で援助を行った。
 一方、旧満州、朝鮮、台湾、フィリピン、南洋諸島などに移住した人たちは、日本の敗戦に伴い、引き揚げを余儀なくされた。
 戦後の県人の海外移住は、移住者たちの沖縄救援策の一つとして一九四八年にアルゼンチン、ペルーへの近親者による呼び寄せ移住から始まった。
 次いで、琉球政府が米軍支配下で独自の移住を行った。その最たるものがボリビアへの計画移民。
 ボリビア移民は、一九五四年の第1・2次ボリビア移民(405人)を皮切りに、19次まで3、2136人を送り込んだ。
 その後、国際協力事業団が148人、合わせて3、386人を送り込んだが、うるま病の発病、干ばつ、水害、米価の暴落、綿作の失敗などの不運が続き、離農者が続出した。定着率は三〇%。
 現在、コロニアオキナワは千人余に落ち着いている。このような暗い歴史は、一九八四年ごろから一変する。大規模に取り組んだ大豆栽培が大当たりしたからだ。コロニアは豊作続きで現在に至っている。
 現在、海外にいる日系人は200万人、うち県人は30万人とかなり高い数字を占めている。
 ただ、戦前の移住が家族単位の農業移住だったのに対し、戦後は青年層の技術移住が特徴として挙げられる。

【まとめ】

 海外には沖縄県系人が30万人いるといわれる。県の統計によると、その内訳はブラジル12万8,412人、アメリカ本土・ハワイ7万7、300人、ペルー4万1,600人、アルゼンチン3万3,600人、ボリビア9,700人…といった具合だ。琉球大学の石川友紀教授に、各市町村出身者の特徴、気質、成功例などについてこれまでの移民調査の印象を含め大胆に語ってもらい、それを中心にまとめた。
 まず1899(明治三十二)年、沖縄から最初に移民を送り出したハワイに触れると、市町村ごとには?中城(戦後中城、北中城両村は分離)?金武?西原?具志川?美里ーの順の多い。トップの中城出身者(一世)は農業、商業を職業とし、数が圧倒的に多く。特に字熱田が目立つ。性格はまじめでコツコツ型だが、まとまりがない面もある。
 金武はハワイとフィリピンがほとんどで南米は少ない。これは、ハワイは勧誘・斡旋して送り出した当山久三(1868~1919年)、フィリピンは渡航者らの監督を務め、本人もミンダナオ島ダバオに定住、沖縄からどんどん呼び寄せた大城考蔵(当山の弟子、1881~1935年)の思想的影響によるものだと考えられる。渡航者がいかに多かったかは、金武町のほとんどの家がハワイかフィリピンに関係していることからも分かる。個性が強く独立独歩型の性格は、外国では有効で溶け込みやすい。
 西原は団結心が強く、リーダーも多く輩出している。移住先のあちこちで町人会、村人会を組織している。具志川はハワイだけでなく、ブラジル、ペルーでも数が多い。戦後も大勢送り出した。
 ハワイの特徴として、与世盛智郎(開教使)、山里慈海(同)に代表されるように久米島出身者の宗教家が多いことも挙げられる。
 沖縄から最も多くの移民を送り出してきたブラジルを、市町村ごとにみると、?羽地?西原?今帰仁?中城?大里?佐敷ーの順になる。なぜこういうランクがついたかというと、1908(明治四十一)年からハワイ・米本土への移民が法律で制限されたことから、それに代わって南米に流れたせいである。つまり、この時期に羽地、西原、今帰仁、旧名護などで”移民ブーム”が起こり、移民会社の募集に飛びついたためだ。殊に羽地、名護出身者はブラジル、ハワイで成功者が多く、それに刺激されて出て行ったようだ。
 農業主体だった島尻郡も移民に関する情報に敏感に反応し、大里、佐敷、知念などが次々移住者を送り出した。これらの地域は団体で行動するのが苦手なようである。
 島尻郡でユニークなのが南風原町。進取の気性に富み、雄飛の精神があることから、笠戸丸による第一回ブラジル移民(七百八十一人、県人三百二十五人)に日系人初の歯科医・金城山戸、天才賭博(とばく)師・儀保蒲太ら四十五人も出している。
 島尻でもう一カ所型破りなのが旧糸満町。漁業を通して昭和初期には台湾、フィリピン、インドネシア、南洋諸島、遠くはキューバ、アフリカ東海岸にまで広がりを見せた。殊に漁業基地のあった東南アジア、南洋諸島では女性自体が現地に乗り込み夫と一緒に行商をするほどたくましさを発揮した。
 ペルーの県系人は?中城?本部?西原?具志川?羽地?大里?美里ーの順に多い。中城の移住者の多さがここでも反映されていることが分かる。2位は本部、本部出身者は団結心が強く、弁が立ちリーダーシップがあることから政治家、実業家が多い。その気質は、町人会を創りいち早く行動する点にも現われている。南米だけでなく本土、南洋群島、台湾などにも移住者が目立つ。
 隣の今帰仁は農地が多く、土地が豊かなせいか本部とはタイプが違い、戦後日本の農地改革の理論を築いた湧川清栄(元ハワイ日本総領事館顧問)のように学者、教育者、研究者が多い。
 7位の美里は戦後合併する越来(後のコザ市)を含めペルー、ブラジル、ハワイに移住者が多い。こちらは泡瀬を中心に団結心が強く実業家や商売人が多い。
 ブラジルからの転住者と戦後移民が顕著なアルゼンチンは、?中城?勝連?大里?与那城?名護(旧名護町)の順位。勝連は平安名、比嘉が圧倒的に多く。字の人口より多いほどだ。隣の与那城も含め勝連、与那城はほとんどがアルゼンチンに行っている。勝連出身者がアルゼンチンに多いのは平安名出身の吉浜加那(1908年の笠戸丸第一回ブラジル移民で、ブラジル到着の翌9年にアルゼンチン入り)がどんどん呼び寄せたせいである。
 ここで旧名護町を含む名護市出身の大物について触れるとー。まず名護市(1970年に旧名護町、屋部、羽地、屋我地、久志4村が合併して誕生)は、1904(明治三十七年)の第一回メキシコ移民に、メキシコ革命で政府軍の傭兵として各地を転戦し、晩年はキューバで貿易商を営んだ山入端万栄(旧屋部村出身、1888~1959年)を出している。
 
また、ワシントンDCで貧乏学生から富豪になった島庄寛。さらにブラジル・カンポグランデ大勢の県人を呼び寄せた実業家・仲尾権四郎、永年にわたり在伯県人会長を務め沖縄文化センターを設置した花城清安、ロンドリーナ市出身で有望な連邦下員議員・荻堂オメロ(2世)、アルゼンチン・ブエノスアイレス市の野菜・花き供給地として知られるフロレンショバレロ市の名護市出身者(80家族、400人)らが挙げられる。このように同市はメキシコ移民に始まりアルゼンチン、ペルーなどに大勢の移住者を送出してきた。
 旧那覇市の移住者の統計がないため比較はできないが、数の上では名護市を上回るのではないかと思われるのが那覇市。旧首里市と旧那覇市は1899年の沖縄初の移民、ハワイ移民(26人)に各3人づつ含まれていたことでもわかる通り最初から移民に参加している。首里はハワイ、フィリピン、アルゼンチンへの移住が多く、池宮城秀長(金物屋経営、ペルー)、比嘉静観(本名・賀秀、クリシチャン、ハワイ)のように実業家、県人社会のまとめ役、インテリを輩出した。
 小禄は上原武夫、高良正弘(2人とも化粧品のチエーン店4店を経営、サンパウロ)、アルバート照屋武雄・ウォーレス照屋武兄弟(十数軒のスーパー・マーケットを経営、ハワイ最大の売り上げを誇っている)のような成功者が多い。特に字小禄出身の実業家が目立つ。小禄出身者の分布範囲は広く、情報ネットワークを持っている。例えば、ブラジルでスーパーを開店しようとしたら、ハワイの情報(経営マニュアル)が手に入る仕組み。ちょっとした”ミニ華僑ネットワーク”を構築している。
 アメリカへの移住は、他の地域と違って留学、学術研究、視察などの名目で渡航した”自由移民”と、ハワイに農業移民、メキシコに炭鉱移民として渡った人たちが転住した”出稼ぎ移民”に大別できる。米国で戦前から戦後にかけて活躍した人としては次のような人たちが挙げられる。(名前、出身地、定住地、職業、肩書・功績の順)

 ▽仲村権五郎=旧羽地村古我地、ロサンゼルス、弁護士、羅府日本人会長・南加中央日本人会長、県人の人権擁護に尽くす
 ▽中谷(旧姓・嘉手苅)善英=西原町出身、ロサンゼルス、農産商・貿易商、資金を提供して沖縄教育界の恩人・志喜屋孝信と共同で那覇市内に開南中学を創立、県人子弟の教育に貢献
 ▽太田蒲戸=与那城町、ロサンゼルス、農産商、南加県人会長、県人会に多額の資金を援助
 ▽西銘蒲太(本名・五郎)=那覇市、農園経営、アリゾナ、北加県人会長・南加県人会長、県人の事業をバックアップし、県人社会発展の基礎築く

 最後に郡別に見ると、移住者は少ないが大物を多数出しているのが国頭郡。例えば、ペルー・リマで南米一の日系旅行社「金城旅行社」を創設した金城新哲、リマで焼鳥屋2店を経営しながら県人会長をはじめ県人会活動に積極的にかかわっている松田マヌエル、アルゼンチン・コルドバに大勢の県人を呼び寄せた実業家・大城吉義、ブラジル・サンパウロで上原旅行社を経営している上原直勝(以上国頭村出身)、ブエノスアイレスで在亜県人連合会長(6期)、在亜日系人会長などを務めた知念繁雄(東村出身)などが代表格である。
 
郡別の移住者数は多い順に中頭郡、島尻郡、国頭郡…となっている。各郡出身者の気質について、ハワイ関係者は「国頭は豪快で企業、開拓向き。中頭は堅実で農業、製造業向き。島尻は俊敏で商業、販売向き」と評する。この傾向は他の移住先にも充てはまるといえそうだ。(敬称略)