prime

<第51回琉球新報短編小説賞受賞作>上地庸子「寄居虫(やどかり)」 (1/7ページ)


この記事を書いた人 Avatar photo 與那嶺 松一郎

ページ: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 

うえち・ようこ 1988年生まれ。宜野座村出身、奈良県在住。2019年ごろに小説を書き始める。同年度に「温もりに遺りて」で第47回琉球新報短編小説賞最終選考に残る。20年度に「わたしが若く美しくなくなっても」でおきなわ文学賞小説部門佳作。

 芝生の上にしゃがみ込む子どもの後ろ姿が姪とわかるまで数秒を要した。手を地面に勢いよく押し当てるかと思えばすぐ離し、また押し当てる。何かを捕まえようとしている。肩から落ちる髪が伸び切った芝生の先に触れている。彼女が来ると事前に聞いていなかった。那覇に住む弟親子が気まぐれに本島北部の実家を訪れたのか。門扉を押すと蝶番が音を立て、姪はこちらを見た。笑うと白目が見えなくなる瞳は、弟に似ていなかった。

 やっと冬らしく冷えてきた年末の空気を、風が押し流す。塀沿いのコクタンの葉先が擦れ合い、姪の髪が乱れる。私の姿を認めた姪は跳ねるように立ち上がった。左の手のひらを握って目線の高さまで持ち上げ、こちらへ歩を進める。私の目を真っ直ぐにまなざし、おばちゃん、と呼びかけて拳を突き出す。見て、と言い手首を返すと、握りしめた小指と掌の間から緑の塊が跳び出した。

「あ、バッタ逃げた」

 姪は踵を返し追いかけていく。家庭菜園を背に広がる庭は、六歳の子どもが全速力で駆けてもゆとりがあった。午後四時の太陽は盛りを終え、紙やすりで擦ったような鈍った光が敷地に満ちていた。

 三和土(たたき)に足を踏み入れると玄関は段ボール箱が敷き詰められ、リビングまで続いていた。閉じ切った倉庫の臭いが漂う。段ボール箱の間を縫って進むと、短い廊下の先にある台所の母と目が合った。訊ねる前に母は口を開く。

「幸司(こうじ)が帰ってきた。ここに住むって、相談もなしに」

 母の顔は薄化粧をほどこされ、かすかに発光している。

「今朝電話で、一部屋空いてるかって聞いてくるから。そりゃ、子ども部屋は空いてるけど」

「急だね」

「前もって言ってくれたらよかったのに」

 当惑の言葉の隙間から、嬉しさが滲み出ていると思った。一度所帯を持った息子が孫を連れて帰ってくるとなれば、老いて独居する母の安堵は無理もなかった。

 五歳下の弟は高校を卒業するとすぐに地元である本島北部の村を出た。中南部で職を転々としながら若くして子を作った。安定しない生活に耐えかねてかどうか、妻が出ていった、と弟が漏らしたのが先月だった。

 幼い娘を残していった弟の元妻の顔を、すでに思い出せない。

 父が亡くなった後の自宅の空白を、母はもてあましていた。意味をまといそこねた空白を、最初からそこが居場所であったかのように段ボール箱が占めていた。母はひとつひとつの段ボールを開いて荷物を取り出していった。ゆっくりと薄闇に浸りゆく部屋で、母の目尻の皺に溜まった日焼け止めが白く光を呼んでいた。母の隣に膝立ちになる。その箱に詰まった物品は姪のものだった。水鉄砲、おままごと用の野菜、きせかえ人形とその衣服や小物などが、母が用意したプラスチックケースに収納されていく。子どものおもちゃは、使う者の手に収まる大きさなので、どれも細々(こまごま)としている。弟は新しい職場のつてのために先輩に挨拶に行ったと、ビー玉をつまみながら母が言った。

 息を切らした姪が庭に面したウッドデッキから部屋に上がってくる。母が手伝うように手招きすると素直に段ボール箱に向かい合った。

 でんでん太鼓を取り出す。姪は持ち手を両掌に挟み、回転させた。玉が鼓面をリズムよく打つ。小学校に上がろうとする子どもが喜ぶおもちゃではなかったが、姪は食い入るように見つめる。

「これ、波澄(はずみ)が生まれたときにばーばがくれたやつなんでしょ」

 よく知っているねと母は答える。

「いとこが生まれたら、波澄が、これをあげようと思ってた」

 母がこちらを一瞬見やったのがわかった。

 窓から差す陽光は乏しくなり、室内は冷えていった。段ボール箱に詰められたおもちゃから、鮮やかさが薄れていく。誰かが明かりを点けるべきだった。母は腰を上げず、音を立てながらおもちゃをケースに移していく。

「波澄はでんでん太鼓で今も遊ぶ?」

 母が尋ねると、姪はううん、とかぶりをふる。

「じゃあ、これは晃久(あきひさ)ちゃんにあげようか。今度お供えしに行こう」

「うん、それがいいと思う、絶対」

 声に背を押されるようにして私は立ち、点灯スイッチを押しに行く。部屋が明るくなると、薄闇と、母の目尻に集まった白い光の痕跡が消えた。

「波澄、パパは明日からお仕事しに行かないといけないわけさ」

 夜帰ってきた弟は、しゃがみこんで姪に視線を合わせ、手を取り言った。

「新しい幼稚園に通えるようになるまで少し時間あるから、謝敷の家でばーばやおばちゃんと遊んでもらえる? パパ、波澄のためにがんばるから」

 専業主婦は暇を持て余してるわけじゃないんだけど、と私が言うと、弟は少し考えるそぶりを見せて、ちょっと遊ぶ時間くらい作れるだろ、と答える。姪は寝間着に原色のムームーを着て、スカートの裾をつまんでいた。つまみあげては離してを繰り返す。

「ヒロミさんがいなくなって、幼稚園のお友達とも離れて。波澄が今どんなに寂しいか、あんたは考えたね」

 姪が二階で寝ついた後の、母の言葉は因縁をつけているように聞こえた。嬉しさを後ろめたく感じているのかもしれなかった。

「あの子は年より少し幼いところがある気がするし」

 寂しい思いをさせている自覚があるからこそ帰ってきたのだと弟は反論した。思いをそのままに取り出してぶつける、親子の応酬が続く。私は鏡面のような湖を思う。湖面は地上の風景を反射しているのではなく、水中にある異世界の光景を映しているとどこかで聞いた。決定的に隔てられたそれぞれの空間の住人は、交感だったり、触れ合ったりできない。並行する生活は、近くありながら、決して交わることはない。

「母さんの環境を突然変えて申し訳ないとは思っているけど、俺も次の仕事は長続きできるようがんばるからさ。母さんを不安にさせないのがこれからの目標よ」

「男親と女の子ひとりでは、不安になるのはあんただろう。波澄の心がいちばん大事さ。そこさえ間違えなければ元気に育ってくれる」

 試合後に互いの健闘を称え合う球児よろしく決着がついた。どのような決着にせよ私は傍観者だった。実家になるべく通うと言い添え、その場を後にする。