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<第51回琉球新報短編小説賞受賞作>上地庸子「寄居虫(やどかり)」(4/7ページ)


この記事を書いた人 Avatar photo 與那嶺 松一郎

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 その気配は真夜中に訪れた。

 暗い視界に突然、寝室の光景が割り込んでくる。照明とカーテンの形がかろうじて確かめられる。暁光はわずかもなかった。夢とは違う生々しい暗闇だった。夜が明けないうちに自室で覚醒したのだとわかる。沈潜していた眠りの深海から急激に引き上げられて戸惑う。

 夜中に目を覚ますのは初めてだった。浮遊感のある怠さに身を任せていればまた寝入るものと思った。けれど目をつむっても眠りはやってこない。次第に、戸惑いとは異なる手触りを心中に感じた。脳を直接人工芝で撫でられているような、単なる快さとは違う違和感だった。隣の敷布団で寝ている夫の寝息がだんだん遠くなっていく。

 左足の親指を、ちょん、と何か尖ったものが小突いた。プラスチックのように硬いものに感じた。次に、中指を突いた。恐怖はなかった。心地は穏やかで、旧知の者が再訪してくれたような、嬉しさと懐かしさに似ていた。私を触ったものが、私を起こしたのだと気づく。

 世界で、相手と私だけが生き残ったような静けさだった。けれど三度めに小指を突いたあと、その佇まいは、空気に溶けてゆくように消えた。毛布と掛布団をのけると、自分の白い足があるだけだった。鼓動は静かで、体の力は抜けている。瞼を閉じると、意識は穏やかに閉じていった。

 人に話すために説明を試みるなら、昨夜の出来事は夢を見たと結論付けるだろう。けれど夢ではない。意識は朦朧というよりむしろ冴えていた。一つひとつの感覚も明瞭に記憶している。長いあいだ縁遠かった温かな気持ちに一瞬触れたとさえ思う。

 空が暗みがかった頃、母がリュックを背負った姪を伴って家を訪れた。

「波澄がどうしても自分で持ちたいって言うからね」

 母は、リュックの中からピーマンやインゲンマメを取り出していく。今朝の家庭菜園での収穫なのだと言う。

 姪がかばんの奥底に手を伸ばし、取り出したものを私の目の前に掲げた。

「これも」

 でんでん太鼓だった。姪の差し出したそれを、受け取ることができなかった。

「ありがとう。お供えのところに置いてもらえる?」

 私はチェストの上を差し示す。姪は素直に従って、でんでん太鼓を天板上の骨壷の手前に置いた。

「波澄、お祈り(うーとーとー)しようね」

 母は点火棒で火を灯した線香を軽く掲げ持って、香炉に差す。

 手を合わせながら、母が言う。

「晃久ちゃんがお空に帰って一年半が経ちました。もうすぐお正月だね。パパとママとばーばは元気でやっていますよ。先々週から、波澄と幸司おじさんも村で暮らすことになりました。波澄は晃久ちゃんに、でんでん太鼓をプレゼントしてくれるそうです。波澄が赤ちゃんのときに、夢中になって遊んでいました。晃久ちゃんもきっと気に入ると思います。天国でたくさん遊んでね」

 手を合わせた姪に、母が挨拶しろと小突くと、「えー、波澄はいいよー」と遠慮している。

 私は合掌を顔の前へ持ってくる。何も言えない。凝固した感情を心のなかで眺めても、滴り落ちるものは何もない。それでも言葉の出るのを待っていると、温かくも冷たくもない感情が、塊のままこみ上げてきて、喉で詰まった。

 ちゃぶ台の上に来客用の湯呑と、子ども用のマグカップを置く。母が夫の帰りについて訊くので、今日も遅くなるはずだと答える。

「教師は大変だね。朝早く出て夜遅く帰ってくる」

「部活の顧問もしているからね」

「あんたは辞めてよかったねえ。こうやって一緒に波澄の面倒も見れるさ」

「私は事情があったから」

 沈黙が降りる。気心を許したはずの母が相手でさえ、会話で埋まらない間が心地のいいものではなかった。茶菓子でも探そうと、私は再び立ち上がる。台所に向かうと、目の端に玄関が見えた。扉の前で、ここでも姪はしゃがみこんでいた。カチャリ、とプラスチック同士を弾くような硬い音が何度も響くので、目を凝らす。

 姪は火を灯した点火棒の先端を、玄関のタイルに押し付けていた。

「波澄!」

 飛びかかるように近づく。手から点火棒を奪う。

「何やってんの。家が燃えるでしょ。何を燃やそうとしていたの?」

 姪は細い目を見開いてこちらを見てから、視線を落とした。

「アリ」

 姪の足元に目を向けると、三和土から扉の桟(さん)にかけて、蟻が行列を作っている。

「波澄、家を燃やそうとは思ってないよ。アリをやっつけたかっただけ」

 何事かとやってきた母も姪に近づいて目を見張る。火傷はないかと確かめながら、いかに火が危ないものなのかを口柔らかく説き始めた。たまたま点火棒があったから使っただけだろう。散水ホースや防虫スプレーがあったらそれを使って、姪は蟻を殺そうと試みただろう。子どもが小さな生き物を殺すことは自然であって、教育を施すべき場面ではない。殺すなという叱責は大人の生理的嫌悪感を軽減するための試みにすぎない。

 火の危険よりも生き物の殺生に重きを置いていると気づいて、思考を一度止めなければならないと感じた。点火棒を線香の近くに戻し、洗い場に向かう。手に水をかける。亜熱帯でも年越し近くの水道水は冷える。熱を流されていく掌の感覚が気を鎮めていくように思えた。

 陽は沈んだ。静かな夕闇の部屋で、母が姪を諭す声だけが耳に届いていた。