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<第51回琉球新報短編小説賞受賞作>上地庸子「寄居虫(やどかり)」(5/7ページ)


この記事を書いた人 琉球新報社

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 布団の中で瞼が開いて、それが再びやってきたと知った。

 粘つく眠気はない。日中の冴えた意識が突然眠りに割り込んできたようだった。数秒前まで深く眠っていたにもかかわらず、何時間も目覚めていたような気持ちで、私は暗い天井を見つめていた。今夜は風が鳴っていた。外壁に強く吹き付ける風の音を暗闇で聞いていると、世の果ての洞穴の奥で、ひとり助けを待っているような心細さを感じた。夫の寝姿を目端にとらえるものの、何重にも次元を隔てられた遠くにいた。

 不意にこみ上げるものがあった。泣きたい、という感情自体が久しぶりだった。その気持ちは温かく、温もりが呼び水になって更に涙を誘った。幼い頃ならお母さん、と叫んでいたかもしれない。けれど、近くに住む健在の母はなぜか求めるものから遠かった。私自身がお母さんになってしまったからだと思った。何度も子を未熟のまま死なせても。一度でもお母さんになってしまったら、私が乞う対象としての母は永遠に内側から失われる。

 目尻から横に流れる涙を拭おうと手を布団から出そうとするときだった。覚えのある穏やかな感触が私を突いた。やはり右足の親指の腹を、ゆっくりなぞっている。私に触れるものは爪楊枝のように細かった。見て確認せずとも、有機物だとわかった。命を宿すものの指先だった。私は掛け布団をはねのけた。

 暗闇の中で目を凝らす。足先を載せていた位置に、石塊(いしくれ)が転がっていた。凹凸の肌を晒す石は、私の拳ほどの大きさだった。寝具の上に載るものとして、それは異質だった。けれど石塊は白い敷布団の上で、最初からそこが居場所であったかのような佇まいで静かに座している。どれくらい経っただろうか。最初は目の錯覚かと思った。けれどたしかに、私の目に入るそれは微かに動いていた。おのれの力で自身の体を支えるように石塊が持ち上がる。布団と接している面から節くれだった枝のようなものが伸びる。私は窓に手を伸ばし、音を立てないようゆっくりとカーテンを引いた。月明かりで室内の物体の輪郭が際立っていく。

 枝のようなものが、何本も露わになる。それらは肢だった。髪の毛のように細い触覚が伸び、何かを察知しようと跳ねるように上下している。オカヤドカリだった。大人の指先ほどの大きさにとどまる海のヤドカリとは違って、その何倍も大きい身体で陸上に暮らす生き物だ。ときおり人間の生活圏に迷い込む彼らは、海と山に挟まれた村で育つ者には馴染みの存在だった。

 けれど、彼らは人家に入り込む生き物ではない。

 触覚を白杖のように振りながら、それは少しずつ移動した。敷布団の微細な凹凸が這うのに適しているようで、遅くとも確実に歩を進めている。どこからやってきたのだろうか。施錠した夜の家で、十センチは優に超える生き物が外から入り込む隙間は無いはずだ。日中窓を開けた際に迷い込んでしまい、暗くなるのを待って出口を探しているものと思われた。以前に私の爪先を突いてから数日が経過していたから、その間ずっと、深夜に食べ物もない屋内を徘徊していたのだろう。哀れになり、右手で殻をつまみ上げる。今まで見かけたどのオカヤドカリよりも大きい。やや異形といってよかった。オカヤドカリは肢と鋏と触覚を瞬時に畳んで殻の中へ引っ込んだ。左手の掌に載せてみると、息を押し殺すように気配を消している。むろん呼吸の音はせず、体温も無い。けれどそこには、同じ暗闇を共有する生命がいた。

 立ち上がって掃き出し窓に近づき、クレセント錠を下ろす。窓を開けると、冷たい風の塊が吹き込んでくる。コンクリートの地盤に、手早くオカヤドカリを置く。私の気配が消えるのを待っているのだろうか、微動だにしなかった。橙色の街灯の光が届き、背負う貝殻の形がよく見えた。貝殻は硬く泡立てた生クリームのように角がひとつ尖っている。粗く粒立ち、白の地色に暗緑色のまだら模様が広がっている。網戸を奥に仕舞い、ガラス戸だけを閉じた。

 オカヤドカリは、自力で浮き上がる鍋蓋のような動きをした。地面と貝殻のあいだの隙間が大きくなって、青紫色の肢が這い出てくる。外気のみずみずしさを確かめるように触覚が跳ねた。閉ざされた空間で徘徊するしかない状況からの解放感はどれほどだろう。ぎこちない動きを次第に早めながら砂利道へと進んでいく。後ろ姿が砂利と紛れ込むのを確かめて、寝床についた。

 寝室では、風の音だけがうなっていた。数分前まで同じ部屋にいた生命体がひとつ去っていったことが急に惜しまれた。迷い子に差し伸べられた救いの手が眼前で消えたような気持ちだった。子どもでい続けることを許されない年齢だというのに、未だ迷い子の心地であることを、どう扱えばいいのかわからない。身体の加齢に心の加齢が追いつかない人間は所在がおぼつかない。迷い子のままいつまでも留まっていいとは、誰も言わない。

 二回の流産を経て、私は教員の仕事を辞めた。朝から晩まで駆けずり回る日々だった。この職は気質に合わないと思った末に不育症の可能性を知り、気持ちの支えが折れた。専業主婦になって孕んだ三回目の子は、生まれる前から心臓の異常を指摘されていた。寝たきりを厳命された妊娠生活の果てに、予定日から二ヶ月早く帝王切開で取り出された子は、保育器以外を知らずに亡くなった。

 産後、病院の個室で私は臥せっていた。視界に入るものはみな重量を失っていた。発泡スチロール製のミニチュアに放り込まれた心地だった。ベッドの手すりの光り方だけがぬめりに似て生々しかった。病室のドアがゆっくりと開いたのを覚えている。食いしばった口元の医師が入室する前から、私は彼から伝えられる内容を知っていた。にもかかわらず、死の告知は重しになって私をすり潰した。冷えた透明なゼリーの底に沈みゆき、鼻と口が塞がれ、明瞭な意識めいたものは遠ざかった。今もなお遠いままだ。

 残されたのは両掌にやっと載るほどの骨と、産前につけられた名前だけだった。長らく元気でいられるように、とすがるような夫の祈りが込められたその名は、悼む対象にするにはあまりに重かった。