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<第51回琉球新報短編小説賞受賞作>上地庸子「寄居虫(やどかり)」(6/7ページ)


この記事を書いた人 Avatar photo 與那嶺 松一郎

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 大晦日であっても実家に集う面々はいつもと変わらなかった。冬休みに入った夫は地元へ帰り、弟は先輩との飲み会と言って家を出た。

 母と姪と三人で正月の馳走の準備をした。煮える具材の音と、包丁が刻むリズムの合間を縫って母は愚痴をこぼす。年越しさえ弟が娘といっしょに過ごせないようでは、小学校に上がっても面倒を見れるわけがないと言う。

「仕事では先輩後輩付き合いが大事なんでしょ。幸司は中学生のときから、大晦日はいつも家にいなかった」

「何年も村にいなかったぶん、濃く交流しないと埋め合わせができないってわかるんだけど。せめて」

 言いかけて、母は一呼吸置く。

「波澄の下にきょうだいでもいたら賑やかだったのかもしれないね。私が波澄の母親代わりになるのは仕方のないことだと思うけど。父親にしかできない役目もあるのに」

 口に出しても詮無いことを言い募る。姪は庭に出ていた。

 新聞の日付とテレビの喧騒、一段と冷えた水道水が年の暮れを示している。母と並んで台所に立ち炊事を進めていく。勤め先を得て街へ出て結婚した頃は、段階を追って確実に親元から離れていく実感があった。夫も子も伴わず母親に付き添う未来が自分に待っていたことを、受け止め切っていない。

 玄関扉が開く音が聞こえる。廊下を渡る足音が家中に響く。

「ばーば、おばちゃん、見て」

 声高に姪が叫ぶ。振り返ると姪が両手で岩のようなものを握りしめている。

「でっかいヤドカリいた」

「ああ、オカヤドカリだね」

 母は姪の声色に合わせて若々しく答えた。

「珍しいね、冬はあんまり見かけないのに」

 私は何も言えなかった。姪が握っているものに視線が吸い寄せられる。蠢く肢がなぞる軌跡を、足指の腹が覚えている。十センチは優に超える巨躯。貝殻は白地が暗緑色のまだら模様に染められ、照明の下で色彩のコントラストが映える。

 先日私の布団に潜り込んできた個体に違いなかった。

「波澄こんなでっかいヤドカリ初めて見た」

 姪の目は生気に満ちていた。宝物をようやく掘り当てたという顔だ。姪の掌に挟まれた貝殻の中で、慌てふためくように触覚が素早く振れていた。肢は甲斐なく空中を上下に切る。幽閉された海の小さなヤドカリたち、桟を這う蟻。それらの行く末を知っているかのような抵抗だった。

 考えるより先に言葉が口をついて出た。

「波澄、逃がしてあげよう」

「いや」

 足がひとりでに前に踏み出し、私は姪ににじり寄る。

「波澄。お願い」

 手を伸ばす。相手はかわす。姪の手の中で、オカヤドカリは殻に閉じこもらず、乗り出すように肢と鋏を目一杯前に出して身を捩(よじ)らせていた。

「いや。波澄これと遊びたいのに」

「なんで、いいさ。ちょっと遊ぶくらい。しばらく遊んだらおうちに帰してあげようね」

 母が宥める相手は私だった。オカヤドカリは腹部が出る手前ぎりぎりまで身を前に乗り出したり、反動で殻の中に戻ったりし始めた。往復運動で勢いをつけ、その弾みで姪の手から逃れたがっているように見えた。

 腹から発火して、炎が気道を上っていく。吐き出さないと喉が焼ける。

「今すぐ離してあげて」

 怒気を込めた声が出たのを聞き、姪は廊下を戻り玄関へ向かう。私は後を追う。姪はオカヤドカリを胸のあたりに掲げ持ったまま、上がりかまちから三和土へ跳ね降りた。ぼとりと、柔らかいものが床に落ちる音がした。

 殻のない剥き身のオカヤドカリが、冷たいタイルの上で踊っていた。外骨格に覆われた肢や鋏とはアンバランスに腹部は小さく、軟質で、弱々しかった。筋肉質な上半身と壊死した下半身を思わせる。晒されているのは、外皮を剥ぎ取られた臓器そのものに見えた。

 姪があどけなく言い放った。

「気持ち悪い!」

 ぱんと鳴る音が、自分の右手が姪の側頭部を打ったものと気づくのに時間がかかった。

 相手はよろけた。鼻の付け根に皺が寄り、唇を震わせながら口を開く。私を見る目から、涙が漏れ出る。

「ママーっ!」

 姪の泣き声が耳を突く。床でのたうち回るオカヤドカリの背をそっとつまみ上げた。揃ったスリッパの内側に貝殻が転がっていたので拾う。自然から隔てられ、鎧を失い、体の末端で空を掻く生き物を見つめる。突き出た目は濡れたように黒光りしていた。

「ママーっ! 会いたいよー!」

 泣き喚く姪を背に玄関の戸を開く。冷えた風が身体にまとわりつく。真後ろにいる姪の叫びは、深い穴の底から助けを呼ぶ声のように切実で、遠かった。私の指に挟まれたオカヤドカリは体の動きを止めていた。不安になって手を揺らすと、弱々しげに鋏を持ち上げた。

 門扉の手前でしゃがみ込み、伸びた芝生の上に貝殻と共に置いてやった。玄関灯の薄明かりが届いて、オカヤドカリの姿が浮かび上がった。傍に置かれた貝殻にはなぜか見向きもしなかった。剥き身の腹を重く引きずりながら、草間に隠れていく。

 霧がかった頭の中で、残された貝殻だけが道標になって、私を導こうとしていた。導かれた先に晃久の欠片が落ちている気がした。

 視界の隅で、星が流れていくのが見えた。珍しいことだ、とぼんやり思う。浮遊する意識に、延々と続く姪の泣き声が絡み、着陸する先を見失った。