ニクソン・ショックと沖縄 強いドル頼みの功罪と「変えていく勇気」 牧野元副知事に聞く


社会
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ニクソン・ショックを振り返る牧野浩隆氏=11日、那覇市内

 ニクソン米大統領が金とドルの交換停止などを宣言した「ニクソン・ショック」から15日で50年となった。米統治下の沖縄に与えた影響などについて、琉球銀行調査部長などを歴任し、戦後沖縄の通貨体制に詳しい牧野浩隆氏(元副知事)に聞いた。

   ◇   ◇

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Q.当時をどう振り返るか。

 「8月15日の『ニクソン・ショック』を、県民は衝撃をもって受け止めた。この問題によってバスやタクシー、電力や銀行など、その他ほとんどの労組や県民が、後にゼネストに近いストライキをしたことが全てを物語っているだろう。沖縄では1958年からドルが法定通貨になった。国際的な基軸通貨であり、県民は誇りと愛着を持っていたと思う。固定相場制で1ドル=360円だったのが、ニクソン・ショックによって15~20%程度切り下げられることになりそうだと、誇りや愛着がいっぺんに吹き飛んでしまった」

Q.ニクソン・ショックの問題点は。

 「ニクソンはドル防衛策として金との交換を停止した。だが沖縄は翌72年に日本復帰を控えているので、現金や預金、給料の読み替えはどうなるか。日本に復帰すれば暮らしは良くなるという期待があったが、ドル価値の下落でむしろ収入は減り、暮らしは悪くなるのではないかという不安が広がった。なお県民の現金預金については、後に1ドル=360円で交換する補償措置が取られる。沖縄自らが解決する手段を持たない不条理さが社会不安をかき立てた」

 「また、沖縄は物資の多くを本土からの輸入に頼っていたため、ドルが切り下がれば輸入価格が上がる。結果、売値に転嫁することになるため、為替差損の補償も問題となった。物価の高騰を見据え、復帰直前にはウイスキーや高級外国製品などの業者の売り控えや消費者の買いだめなども起こった」

Q.なぜ米国は、ドルを沖縄の法定通貨にしたのか。

 「1958年にドルに切り替わった。その目的として、米軍は島ぐるみ闘争の後に基地の安定運営のために外資の誘致によって雇用を増やそうと考え、それを実現させるために基軸通貨のドルを法定通貨に変更し、経済の自由化体制を確立させた。ドルという強い通貨を持つことで沖縄の住民は安くモノを買うことができた。外国製品が安く入ってくるので、沖縄では輸入品を販売するなど第三次産業が盛んになった。沖縄で製造業が育っていないのはこうした歴史も影響している」

Q.50年前を振り返り、ニクソン・ショックが今の沖縄に示唆するものは。

 「経済政策の重要さと、国際的な潮流、経済環境をどれだけ認識するかではないか。米国の哲学者ニーバーは『変えられるべきものを変えていく勇気と、変えられないものを受け入れる謙虚さ、この二つを見分ける知恵を与えたまえ』という言葉を残している。沖縄の諸問題は世界とリンクしている。世界を見て変えられるものは変えていく。変えられるのに変えないという不作為は許されない。変えられないものは受け入れる謙虚さも併せ持つバランスが、沖縄に求められているのではないか」

 (聞き手 小波津智也)


 まきの・ひろたか 1940年生まれ、石垣市出身。大分大卒、カリフォルニアウエスタン大大学院修士課程修了。64年、琉球銀行入行。同行取締役総合企画部長や常任監査役などを経て、99年~2006年、稲嶺恵一県政の副知事を務めた。副知事退任後の07年から、県立博物館・美術館の初代館長も務めた。「戦後沖縄経済史」「バランスある解決を求めて」など著書・論文多数。


 

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