【前の記事】ニクソン・ショック50年 ドル経済・沖縄を襲った「通貨烈風」
1971年8月15日にドルと金の交換停止などを突如発表したニクソン米大統領の宣言は、法定通貨としてドルが流通していた当時の沖縄を震撼(しんかん)させた。支給される給与や買い物、企業の事業活動まで、ドルが暮らしを支えていた。世界一強いドルを使って、多くの日本製品を「輸入」していた時代でもあった。
>>27年で5回も通貨が変わった沖縄 つくられた基地依存経済
変動相場制への移行で1ドル=360円より安いレートでドルと円が交換されれば、日本からの輸入に頼る沖縄にとって日本製品の購入費用が膨らむ。物価の上昇で家計負担は増し、島内消費が冷え込むことが想定された。
それだけでなく、翌年に控えた日本への復帰が重大問題だった。復帰時には、住民がドルで持っている現金や預貯金を円に交換する必要がある。これまでは当然のこととして、1ドル=360円で交換がなされる認識だった。
ところが復帰までの間に「ドル安・円高」が進んでしまうと、ドル円交換時の財産が時間と共に目減りすることになる。
■損失400億円
ニクソン・ショックの沖縄への影響について、琉球大経済研究所が琉球政府に提出した報告書では、円に対しドルが10%下落すると現金通貨で約2200万ドル(80億円)の損失、預貯金で8850万ドル(320億円)の損失に上るという試算が示された。
琉球工業連合会も、ドルが10%下落すると28企業が合計約254万ドルの損害を受けると分析した。
沖縄の日本復帰を牽引(けんいん)してきた琉球政府の屋良朝苗行政主席は、復帰を目前に想定もしない経済問題に直面することとなった。
■極秘「通貨確認」
ニクソン・ショック9日後の71年8月24日から2日間、琉球政府は復帰を待たず早急に通貨を円に切り替えるよう日米両政府に求め、1ドル=360円を保証することなど4項目を要請した。
しかし両政府の反応は冷ややかだった。日本政府は同27日に円の変動相場制移行を発表する。激動する国際経済を前になすすべが見つからず、9月1日には那覇市の与儀公園で開催された「ドル危機から生活を守る県民総決起大会」に3万人が集結するなど、沖縄住民の怒りと不安が渦巻いた。
何とか1ドル=360円の交換レートで沖縄が日本復帰を迎えられないか。琉球政府は日米両政府に通貨の即時切り替えを要請する一方で、屋良主席から通貨問題を委任された宮里松正副主席が、日本政府の山中貞則総務庁長官と事態打開の可能性を探った。
通貨の扱いは国家の根幹に関わるだけに、交渉は水面下で進められた。円への切り替え時期を復帰より前にすることはできないが、日本政府が為替差額を穴埋めすることで復帰時の1ドル=360円交換を保証することを検討した。
しかし、事前に円をドルに換えて大量に沖縄に持ち込んでおき、復帰時の交換で差益を狙うという投機目的の動きを招く恐れがある。そこで宮里氏と山中氏の間でひねりだした案が、「通貨確認」だった。
復帰前の任意の時期に県民の現金や預貯金のドル資産を把握しておいて、1ドル=360円から目減りした分を日本政府が復帰時に補てんするという“奇策”だった。そのためには情報が漏れることなく、抜き打ちで通貨確認を実施することが絶対条件だった。
■電光石火、続く不安
宮里副主席ら琉球政府は極秘裏に日本側との折衝を重ね、10月8日早朝に「通貨確認」の了承を得た。同日午前、屋良主席が記者会見を開き、翌日に通貨確認を実施すると発表。投機ドルの流入阻止のため、県内全ての金融機関に即座の業務停止を命じた。
同日中に立法院で緊急臨時措置法を成立させ、電光石火で実施の手はずを整えた。
翌10月9日、沖縄各地の銀行や公民館など357カ所で通貨確認作業が実施された。現金や預貯金の額を申告するため、ドル紙幣を手にした多くの住民が長蛇の列をなした。窃盗被害が続出するなどの混乱も見られた。
この日、県内金融機関で確認された現金や通貨制資産(預貯金から負債を差し引いた純資産)は合計5億6210万3ドルに上った。
ただ、その後も通貨確認だけではドル不安や賃金保証は解決されないとして、72年2、3月には労組による大規模なストライキが相次いだ。
沖縄の施政権が日本に返還された72年5月15日の交換レートは、1ドル=305円まで円高が進んでいた。日本政府は通貨確認の証書が付いたドル資産について1ドル=360円換算で差額を穴埋めした。通貨確認の71年10月9日以降に住民が手にした財産は1ドル=305円の交換レートで、補てんはされなかった。
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