那覇市安里の国際通り入り口付近にあるドラッグストア「マツモトキヨシ」。ここがサンエー1号店だったことをどれだけの人が覚えているだろうか。
先代社長の折田喜作氏(故人)が、日用雑貨を扱うオリタ商店を宮古島で開業したのが1950年。その20年後の70年に沖縄本島に進出するとともに株式会社サンエーを設立。那覇市安里の国際通りにセルフサービス方式の総合衣料品店をオープンしたのが始まりだ。客が商品をじかに手に取り品定めができ、品ぞろえも豊富。価格も正札販売ーというのは当時としては画期的だった。
復帰はチャンス
1989年の本紙インタビューで折田氏は「宮古で実際に商売をしていたのは、10年くらいですね。その後の10年は商売もそっちのけで頻繁に東京や大阪に出掛け、流通業の勉強に明け暮れていた。宮古での商売は、いわば那覇でスーパーを開くためのウオーミングアップだったんです。だから宮古では財産を作っていない。〝財産〟はみんな頭脳にたたき込んだ」と振り返っている。
その「財産」は言葉通り、サンエー設立後、生きる。
サンエー設立の1970年は沖縄の日本復帰直前。ドルから円への移行という沖縄経済にとって激動期だった。そんな中、本土での小売業の活況を見ていた折田氏は「復帰したらスーパーは必ず伸びる」と確信していた。
復帰前の沖縄は日本本土との人や物の移動が制限されていた。本土から沖縄に物を運ぶには個人輸入による通関手続きが必要で、代金の決済も信用状が用いられた。日本本土には安くて良い商品が豊富にあり、沖縄の市場にもその需要があるのに、その複雑な手続きのため商品を円滑に供給できていなかった。復帰に伴い、それらの「障壁」はなくなる。「小売業にとって復帰はチャンス」と折田氏はとらえた。
資金力の限界を補った戦略は
復帰により日本本土との障壁がなくなることは、本土資本の進出も意味した。競争力を高めるため、本土企業と提携した県内の企業は多かった。サンエーにも本土企業から提携の話があったが、折田氏はそれを断り、自主独立路線を選んだ。そして「本土企業に太刀打ちできないという潜在意識をなくすことに努めなければならない」とナショナルチェーンの大型店に対抗した。
1号店こそ那覇に出店したサンエーだったが、その後は沖縄市、名護市、宜野湾市など郊外に出店していく。「銀行からの融資が頼りだったが、それも断られることがあった」という当時。資金力の限界を補いながら規模を拡大する方法が、地価の高い那覇市内ではなく、郊外に次々出店していくことだった。
それは同時に、近い将来、沖縄が本格的な車社会になることを見据え、広い駐車場があれば、多少立地が悪くても集客は見込めるーと踏んだ戦略でもあった。
東京や大阪で学んだ流通業のノウハウは沖縄流にアレンジした。それは一気に高級化するのではなく、力相応に、沖縄の生活レベルに合わせた店舗展開だった。復帰20年を迎えた92年のインタビューでは「サンエーの売り上げが伸びたのは県民が豊かになったあらわれ」と話している。
経営は数値で始まり数値に終わる
77年からは食品部門にも進出。85年には自前の物流センターを設置して食品部門を強化した。この年には初の大型店、マチナトショッピングセンター(現サンエーマチナトシティ)がオープン。70年に1億円だった売上高は195億円に達し県内業界トップに。店舗数も20店舗に達した。大規模小売店舗法が改正された90年には北谷町にハンビータウンを開店。当時の新聞では「本格的な大規模店競争の幕開け」と報じられた。
その後、県内小売業界はスーパーマーケットを中心に百貨店、コンビニを含め県内で一定の基盤を持った各社がしのぎを削る状況に突入していった。
「先行きが不透明であればあるほど現実離れしない常識的なバランス経営に徹しなければいけない」「経営は数値で始まり、数値で終わる」と語っていた折田氏は「流通戦争」と言われる時代でも他社ではなく自社の数字を見て経営した。94年には小売業の数値の安全ラインとして①借金は売上高の25%以内②金利負担は1.5%以内③利益は売上高の3%以上④損益分岐点の比率は90%以下ーと設定した。「カリスマ」と呼ばれた創業者は95年2月、病気により急逝したが、経営理念は今も受け継がれている。
(玉城江梨子)