太平洋戦争で日米の激しい地上戦となった、旧南洋群島(北マリアナ諸島)のサイパンにおける日本軍の組織的戦闘の終結から7日で80年。日本は旧南洋群島を第1次世界大戦時に占領し、委任統治の適用で1922年、統治のために南洋庁を設置した。当時、日本人のうち県出身者が最も多く暮らし、サイパン、テニアンの地上戦で巻き添えになり、ロタやパラオでは空襲で命を落とした。12島の県出身犠牲者は1万2826人に上る。
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サイパンなどのマリアナ諸島は「絶対国防圏」の要として第2次世界大戦開戦後に軍事強化され、飛行場や海軍施設を多数抱えていた。米軍は本土進攻の航空基地確保が目的だった。
1944年7月7日のサイパン陥落を受け、日本政府は同日、沖縄や奄美でお年寄りや女性、子どもの島外疎開を閣議決定。住民を足手まといとして排除し、食料確保という戦争遂行上の意図があった。疎開する住民を乗せた輸送船への攻撃で大勢の犠牲者も出た。
サイパンでの住民犠牲は、報道で「軍と運命を共にした」と宣伝され、戦意高揚に利用された。日本は持久戦を継続し、旧南洋群島の「捨て石」は沖縄の「捨て石」へとつながっていった。
(中村万里子)