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生後50日の子残し、父が乗る「湖南丸」撃沈 政府の遺族補償も一切なく<海鳴りやまずー撃沈船舶と対馬丸80年>4


生後50日の子残し、父が乗る「湖南丸」撃沈 政府の遺族補償も一切なく<海鳴りやまずー撃沈船舶と対馬丸80年>4 湖南丸事件で亡くした父の写真を大事そうに手にする宮城幸子さん=7日、名護市の琉球新報北部支社
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 1982年、名護市議の大城敬人さん(83)らは記者会見を開き、戦時中に軍事機密で伏せられていた事実を明らかにした。「戦時中、『湖南丸』は米軍に撃沈された」。船を所有していた大阪商船から後身会社に引き継がれた事故報告書を発見した。「右舷側に敵の魚雷二発が命中した」と記されていた。

 戦時中、船舶の撃沈は全て軍事機密とされ、戦後も国は補償せず、遺族は置き去りにされてきた。嘉陽宗厚さん=当時33歳=は湖南丸に乗り込み、消息を絶った。妻の故ヨシさん(96年に死去、享年82)の相談を受け、大城さんらが調査に乗り出した。大城さんの叔父も湖南丸に乗っていた。

 ヨシさんと宗厚さんの次女、宮城幸子さん(81)=名護市=によると、両親は出稼ぎで勤めた大阪の紡績工場で出会い、結婚した。4人の子どもと、つつましく暮らしていたが、やがて戦争にいや応なく加担させられていく。

 父親の勤務する紡績工場は軍需工場に変わり、父親は会社の指示で労働者を募集するため、43年10月、沖縄に向かった。日米開戦以降、米軍は無差別に日本の船舶を攻撃していた。43年には沖縄と本土を結ぶ船舶の撃沈が相次ぎ、すでに海の戦争は始まっていた。

生まれたばかりの兄を抱え笑顔を見せる、宮城幸子さんの父の嘉陽宗厚さん

 父親は現名護市幸喜で声をかけて回った。同年12月、女性たちを引き連れて大阪に戻るため湖南丸に乗った。湖南丸は12月21日未明、米潜水艦に撃沈された。

 その時、幸子さんは生後50日。子煩悩だったという父親との直接の記憶はない。49年、母親は子ども4人と故郷の幸喜に帰った。大黒柱を失い食べるのもやっとで、母親は父親について「犬死にだった」と嘆いた。

 湖南丸撃沈を発表した82年の会見は大きな反響を呼んだ。せきを切ったように嘉義丸や開城丸の遺族会結成などが続き、83年には戦時遭難船舶遺族会連合会が発足した。

 撃沈された船を巡り、一部を除いて一切の援護を受けてこなかった約900人の死没者が存在した。戦後補償を求めるうねりが高まり、県は93年11月、「戦時遭難船舶犠牲者問題検討会」を発足した。県出身の民間人に関わる戦時撃沈船舶は26隻、県出身者3427人を含む4579人と発表した。

 1950年に遺族会が結成されていた対馬丸の関係者に対し、政府は62年に最初の見舞金を支出した。しかし対馬丸を除く戦時遭難船舶遺族は一部を除いて一切補償せず「特別支出金を支給すべき特別の事情はない」との立場を変えていない。

 調査した大城さんは「かん口令の影響で調査の着手も遅れ、国は全容解明しないまま今に至る。多くの犠牲者は政府の戦争遂行という国策に協力して死んだ。対馬丸並みに補償すべきだ」と訴える。今、台湾有事を想定し、先島諸島からの避難計画が進む。「海で犠牲になった場合の補償を国が約束しない限り、民間人を避難させるべきではないし、こんな計画は無意味だ」と強調した。

 7月28日、幸子さんは子や孫を連れ「海鳴りの像」(那覇市若狭)を訪れた。1987年、戦時遭難船舶遺族会連合会が撃沈された船の犠牲者を悼み、設置した。「誰にも私と同じ思いをさせたくない。戦争は絶対にだめだ」。幸子さんは刻銘板にある父親、宗厚さんの名を見詰めた。 

(玉寄光太、中村万里子)