太平洋戦争中に疎開する児童らを乗せて沈没した対馬丸事件を、4歳で体験した生存者の照屋恒さん(84)が22日、那覇市若狭の対馬丸記念館で、母と姉を亡くした事件のことや、語り部としての思いを語った。講演は開館20周年記念の連続講話の一環で、約60人が参加した。
対馬丸が撃沈された際、母はしょうゆだるにつかまるよう言い残し、7歳の姉を探しに行った。「台風がきていて波が高く、たるをつかみながら上がり下がりした感覚は少し残っている。助けられた時の記憶はない」と振り返った。
戦後、「対馬丸で助かった子」と指さされることが「嫌で、学校でも職場でも話をしなかった」と照屋さん。語り部になったのは70歳の頃だった。「点としてはあるが、線としての記憶はない。覚えていないのにできるのか」。悩んだ末に、他の体験者の証言や資料で記憶を補うと同時に、日本が起こしたアジア太平洋戦争の結末に対馬丸事件と沖縄戦があったことを伝える、自分なりの方法に行き着いたという。
講話の最後に現在、国が沖縄で軍備増強を進める「南西シフト」に触れ、「若い人は攻められないように軍備強化したほうがいい、という人もいるが、軍備より外交、話し合いをなぜしないのか。戦争は絶対に駄目」と力を込めた。
講話を聞いた大謝名小5年の城間桜さんは「語り手をできる勇気がすごいと思った」と話した。
(中村万里子)