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疎開中止の学校も 対馬丸撃沈、非公表でもうわさ聞き 直前で取りやめた保護者も


疎開中止の学校も 対馬丸撃沈、非公表でもうわさ聞き 直前で取りやめた保護者も 対馬丸(那覇市歴史博物館提供)
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 太平洋戦争中、疎開する学童や子ども連れを乗せた対馬丸が米潜水艦に撃沈され、1484人(氏名判明分)が犠牲になった事件から22日で80年。関係者が年々少なくなる中、事件の記憶を途絶えさせてはならないと語り継ぐ動きが進む。一方、戦前と重なるような沖縄における軍事強化と避難計画の策定の動きに、識者は政府の前のめり姿勢や避難の現実性を疑問視する。

 自衛隊の配備強化が進み、日米の軍事訓練が繰り返される先島諸島では、武力攻撃事態への詳細な説明がなされないまま、戦中の疎開とも重なる避難計画が進む。沖縄戦体験者などからは「なぜ避難しなければならないのか」「住み慣れた故郷を離れたくない」といった懸念が相次ぐ。戦前、海上移動の危険は公表されず、住民は判断を強いられた一方、取りやめた動きもあった。

 恩納村では、疎開の勧奨事務が進められ、各学校で学童疎開が呼びかけられた。親への説明会もあったが、学童集団疎開は行われなかったという。詳しい理由は分かっていない。対馬丸撃沈のうわさが流れ、疎開を中止した学校もあった。

 「与那原の学童集団疎開 第一部―体験集 ムギメシヒトツ ココフタツ」によると、与那原国民学校の第1次集団疎開の学童らは対馬丸と船団を組んだ和浦丸に乗船した。ただ、那覇の旅館で待機中、父母らに「各自、太い竹と縄を用意するように」と緊急の通達があり、父母らが旅館に殺到。疎開を取り消し、疎開学童数は当初の予定の約半分にまで減った。

(中村万里子)