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日本軍が民間船を徴用 沖縄県民の犠牲700人を超える 戦後の補償もなく<戦時撃沈船舶と対馬丸事件>3


日本軍が民間船を徴用 沖縄県民の犠牲700人を超える 戦後の補償もなく<戦時撃沈船舶と対馬丸事件>3 海(イメージ)
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 1944年8月22日、対馬丸が米潜水艦の魚雷によって撃沈されてから80年を迎えた。疎開学童ら1788人を乗せ、那覇から九州に向かう途中に米潜水艦の魚雷によって撃沈された。犠牲者は氏名が判明しているだけで1484人。半数以上が子どもたちだ。

沖縄では1945年4月に米軍が沖縄本島に上陸し、悲惨な地上戦が展開されたが、海上ではその前から戦場となり、多くの県民が犠牲になっていた。戦意を失わないよう日本政府や軍は日本船撃沈の事実を軍事上の秘密として、生存者や遺族などの口を封じた。県民は、疎開や徴用などで米潜水艦が潜む危険な海に送り出された。そして現在、「台湾有事」などを理由として、住民の県外避難などを掲げる国民保護計画が進む。沖縄の近海で起きた海の戦争はどんなものだったのか。今につながることは何かをまとめた。


アメリカの潜水艦による魚雷攻撃で沈没した湖南丸(商船三井提供)

 沖縄県が1955年に発表した報告書によると、アジア太平洋戦争時、疎開や本土航路、引揚などの途中に撃沈された船舶の県出身者の犠牲者数は3427人となっている。これとは別に、日本軍が民間船を徴用した「戦時徴用船」の船員として、少なくとも340隻以上で700人以上の県民が太平洋全域とインド洋で犠牲になった。

 琉球新報社が「戦没船員名簿」(1972年、戦没船員の碑建立会)を基に、近年の戦時徴用船に関する調査結果を加味した上で分析し、2020年に報道した。

 日本政府は戦時下にあらゆる船舶を自由に活用できるよう、1942年に「戦時海運管理令」を施行した。これに基づき、日本軍は陸軍、海軍の各作戦で使用したり、船舶運営会に貸し下げて民需用で利用したりした。

 県出身の船員については、雇用のあり方や待遇など不明も多い。市町村史などに残る元船員の証言から、15~17歳の若い船員が多かったことが分かっている。また、宮古や八重山に本籍があった船員らが全体の3割以上を占め、特に宮古島は人口比率で突出しており、大規模な徴用があった可能性がある。

対馬丸以外の遺族補償「ほとんどが対象外」

 対馬丸の遺族会は1950年に発足し、遺族への補償や船体引き上げなどを日本政府に求める要請行動を展開した。62年には最初の見舞金が支給されている。一方、そのほかの撃沈された船の遺族会の結成が1982年に相次ぎ、83年には戦時遭難船舶遺族会連合会も結成された。遺族補償や遺骨収拾、事件の全容解明などを求めたが、今も補償はない。

「国は、南洋や沖縄周辺で沈められた船舶の犠牲者に対する補償をすべきだ」と語る大城敬人さん

 戦時撃沈船舶は、戦闘の邪魔になる住民を排除した側面があり、国の補償の対象になる見方がある。戦時遭難船舶遺族会の事務局長兼会長代行を務める大城敬人さんは叔父を湖南丸で失った。「犠牲者の多くは国の命令で海に出たにもかかわらず、ほとんどが補償の対象外だ。国は責任を持って補償問題に取り組むべきだ」と語った。