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【特別評論】教訓生かし、悲鳴なき海に 対馬丸撃沈80年 島袋貞治(暮らし報道副グループ長・沖縄戦担当)


【特別評論】教訓生かし、悲鳴なき海に 対馬丸撃沈80年 島袋貞治(暮らし報道副グループ長・沖縄戦担当) 2004年に那覇市若狭に開館した「対馬丸記念館」
この記事を書いた人 Avatar photo 島袋 貞治

 沖縄本島の北部・名護市を車で抜けて本部港までの海岸線を通ると、沖合に数十隻の運搬船がずらりと並ぶ。まるで船団を組んでいるかのようだ。名護市辺野古の新基地建設に伴い、市安和から埋め立て用土砂が海上運搬されるようになった2018年12月以降、見かける光景だ。

 安和桟橋の搬出現場では今年6月に交通死傷事故があり、搬出は中断されていたが、防衛省は8月22日に再開した。その2日前には、大浦湾側での新基地の護岸造成に向け、くいの打ち込みを始めた。沖縄県は新基地に反対し、辺野古と安和のいずれの現場でも県民が抗議を続ける。抗議する人々の悲鳴が海に響く。

 22日は対馬丸事件から80年。安和の工事が再開されていた時、対馬丸の犠牲者らを弔う那覇市の小桜の塔で慰霊祭が執り行われていた。犠牲者は1484人(氏名判明分)で、半数以上が子ども。1944年、日本政府は疎開を決定し、指示を受けた県も疎開業務を進めた。

慰霊祭で、小桜の塔に向かい、手を合わせる参列者たち=22日、那覇市(小川昌宏撮影)

 しかし、慰霊祭であいさつした自見英子沖縄担当相は「疎開」の文言を用いなかった。「沖縄戦の悲劇の象徴である対馬丸事件の記憶や教訓を、今を生きる同じ年代の子どもたちにも自分事として感じてもらい、遭難学童等への哀悼や世界の恒久平和への願いを発信し続けることは非常に重要」と述べた。女性や子どもを足手まといとし、疎開を推進した政府は遺族からすれば加害側といえるが、疎開を直視しないなら文字通り「自分事」ととらえているのか疑問だ。

 九州の疎開先で沖縄の子どもたちは厳しい環境で暮らした。「やーさん、ひーさん、しからーさん(ひもじい、寒い、さびしい)」。その悲鳴は疎開を象徴する言葉、教訓として今に伝えられる。

 沖縄戦当時、教員らは疎開を渋る親たちの説得に回らされた。送り出した親や家族も含め、多くの県民は戦後、自責の念に苦しんだ。現在、新基地建設を巡り、現場で県民同士がにらみ合う状況も続く。新たな自責の念を県民は背負わされないか。基地は攻撃目標になり、住民も無差別に攻撃される。80年前、私たちが学んだことだ。しかし、反対の声を押し切り、軍事配備を強引に進める政府の今の姿勢は80年前と重なる。

 対馬丸記念館には「対馬丸のこどもからあなたへ」と題したメッセージが展示されている。

 「ああ、でも海の底にいるとよく聞こえるのです 今も世界中のあちこちで子ども達が悲鳴を上げています なぜ なぜ なぜ」

 悲鳴なき海、沖縄。犠牲者たちの願いだ。