那覇市首里山川町であった米国製250キロ爆弾1発の不発弾処理は29日の午前中で何事もなく終了した。ただ、住民1400人が避難対象となり、バスも含めて交通が規制されたため、多くの人々に影響を与えた。沖縄戦から79年経過しても戦後処理が終わらない現状に、那覇市の知念覚市長は「負の遺産を処理するため膨大な労力が必要になる。いかに(戦争という)愚かなことをしたか。今生きるわれわれが考えないといけない」と語った。
地元住民によると見つかった不発弾は1948年ごろに埋められたもので、山川町に住む一部の人には知られていた。処理現場の目の前に住む賀数朝弘さん(76)は「父親から聞いていたので、道路を掘る水道工事業者に伝えていた。知らずに掘っていたら危なかった」と、自衛隊の準備作業を見守っていた。
29日午前8時50分、市職員が個別訪問を始めると住民らは自家用車で外出し始めた。車いすで生活する久田カズコさん(76)は事前に避難支援を申し出ていたため、市の車両で送迎された。付き添った娘の小橋川悦子さん(56)は「朝早い時間で母が車いすなので大変。早く不発弾が沖縄からなくなってほしい」と訴えた。
市によると処理中に避難所計3カ所で待機していたのは計25人。避難区域外に住む具志堅毅さん(67)は「今後の予行演習もかねて避難してきた。不発弾はない方がいいが激戦地だったので仕方ない」と受け止めていた。
(嘉陽拓也、玉城凪姫)
関連記事