かりゆしウエアに身を包み、沖縄から来た学生に原爆の惨状を伝える座間味正彦さん(77)=広島市=は、与那原町出身の父を持つ平和ガイドだ。ありったけの地獄を集めた戦場となった父の故郷、そして一瞬で破壊された地元広島―。「戦争を起こすのも人だが、平和な世をつくるのも人。歴史を知り、思いを学び、みなさんが伝承者となってください」。平和への思いをかみしめながら、やさしく語り掛ける。6日、広島に原爆が投下されて79年を迎える。
父の盛彦さんは仕事の関係で戦前に広島の三次市に移り住み、終戦から2年後に座間味さんが生まれた。幼かった頃、周囲には手足や視力を失ったり、やけどでケロイドを残したりした人があふれていた。小学生の頃に先生が言った「お前たちがいくつになったら広島は元に戻るのだろうか」との言葉が胸に残っている。何もなかった街は少しずつ緑が戻った。
沖縄の現状は知らなかった。父は決して沖縄戦の話はしなかった。「いま思えば、悲しさや悔しさで耐えられなかったのだろう」。小学6年生で初めて沖縄を訪れた。当時は戦後の米統治下。アルファベットの看板が掲げられ、ジープ型の車が行き交う様子に「ここは本当に日本なんだろうか」とショックを受けた。
平和ガイドになったのは12年前。不登校の子どもたちの支援をしていたところ、市職員から声がかかった。県外から多くの修学旅行生が訪れるが、平和ガイドの不足が問題で「子どもが好きだからやってみようという、単純な気持ちからだった」と明かす。沖縄と広島という二つのルーツがあり「平和への思いは元々人一倍強かったというのもあるよ」。その後、沖縄県人会の縁もあり、沖縄から広島を訪れる生徒らのガイドも務めることになった。
戦後79年。ガイドの高齢化で継承が課題となり、核兵器の脅威はいまだ世界を覆う。その憂いを吹き飛ばしたのは今年6月23日、慰霊の日の沖縄全戦没者追悼式で朗読される平和の詩だった。「もっともっとこれからも 僕らが祈りを繋ぎ続けよう 限りない平和のために 僕ら自身のために 紡ぐ平和が いつか世界のためになる そう信じて」と詠む、高校生の姿に涙が止まらなくなった。
「平和は受け継がれているんだなと、うれしくなって。だから今日も平和の小さな小さな伝承者を残すために頑張りますよ」。そう語り、穏やかに笑った。
(新垣若菜)