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奄美大島に多数の遺体 沖縄県関係の撃沈船26隻<戦時撃沈船舶と対馬丸事件>2


奄美大島に多数の遺体 沖縄県関係の撃沈船26隻<戦時撃沈船舶と対馬丸事件>2 貨物船「湖南丸」を撃沈させたことで知られる米潜水艦「グレイバック」(米国立公文書館所蔵)
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 1944年8月22日、対馬丸が米潜水艦の魚雷によって撃沈されてから80年を迎えた。疎開学童ら1788人を乗せ、那覇から九州に向かう途中に米潜水艦の魚雷によって撃沈された。犠牲者は氏名が判明しているだけで1484人。半数以上が子どもたちだ。

 沖縄では1945年4月に米軍が沖縄本島に上陸し、悲惨な地上戦が展開されたが、海上ではその前から戦場となり、多くの県民が犠牲になっていた。戦意を失わないよう日本政府や軍は日本船撃沈の事実を軍事上の秘密として、生存者や遺族などの口を封じた。県民は、疎開や徴用などで米潜水艦が潜む危険な海に送り出された。そして現在、「台湾有事」などを理由として、住民の県外避難などを掲げる国民保護計画が進む。沖縄の近海で起きた海の戦争はどんなものだったのか。今につながることは何かをまとめた。

6日間漂流、餓死も

 沖縄関係の戦時撃沈船は26隻。米潜水艦部隊は、定期航路や疎開者、引揚者を乗せた船を武装の有無に関わらず攻撃し多くの犠牲者を出した。

 沖縄と本土を結ぶ定期航路を航行中に米軍に撃沈された船舶は5隻。多くの県民犠牲者を出した最初の船は嘉義丸で、1943年5月に米潜水艦の2発の魚雷攻撃により乗船者551人のうち県出身者283人を含む321人が犠牲になった。同年12月、那覇から鹿児島に向かっていた湖南丸が米潜水艦の攻撃で沈没し、乗船者683人のうち577人が犠牲となった。生存者の証言によると、奄美大島の遺体安置所には、犠牲者の遺体が多く並べられた。

 サイパンやパラオなど南洋群島からの引揚船は15隻と半数以上だ。戦局が進むと、日本委任統治領だった旧南洋群島の統治機関・南洋庁は女性や子ども、高齢者らを日本本土に強制疎開させ、その航路途中に多くの犠牲者が出た。引揚者を乗せていた赤城丸は、44年2月、トラック島から横須賀に航行中、空爆を受けた。生存者を護衛艦香取に移したが、米機動部隊の集中砲撃で沈没し、多くの県出身者を含む512人が亡くなった。

 同年6月にはサイパンから護衛艦5隻を含む13隻が横須賀へ出航したが、千代丸、白山丸が次々と攻撃を受け374人が亡くなった。

 対馬丸を含む3隻が疎開途中に攻撃された。魚雷攻撃を受けた対馬丸の乗船者は闇夜の海に投げ出された。筏(いかだ)にしがみついた人や、運良く救命ボートに乗れた人もいたが、6日間漂流して餓えに苦しんだ後に救助された人もいた。

 第一千早丸、第五千早丸には石垣島から台湾に疎開する住民180人が乗船したが、突然の機銃掃射を受けた。第一千早丸が持ち直し、尖閣諸島の魚釣島に上陸したが、過酷な無人島生活が待ち受け、飢餓も含めて100人以上が死亡した。