コザ騒動50年 爆発した基地の街の怒り


社会
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基地の街を包んだ怒りの炎
「コザ騒動」

 1970年12月20日未明。沖縄県コザ市(現沖縄市)で、5千人もの群衆が米軍関係者の車両およそ80台を焼き払う事件が起こった。

 「コザ騒動」として語り継がれる一夜限りの出来事。

 怒りの炎に照らされた基地の街には、やり場のない叫びが響いた。

 「沖縄はどうしたらいいのか。沖縄人も人間じゃないか」

群衆に襲われ、炎上する車両=1970年12月20日未明、コザ市内

 激しい地上戦が繰り広げられ、県民の4人に1人が犠牲になったとされる沖縄は、戦後も米国による統治が続いた。

 嘉手納基地に隣接するコザの街は米兵でにぎわい、1960年代に入るとベトナム戦争景気に沸いた。69年11月、当時のニクソン米大統領と佐藤栄作首相による会談で「72年の沖縄返還」が合意。

 そんな日本復帰を目前にしていた時期に、コザ騒動は起きた。

 騒動の発端は米兵による交通事故だった。

 午前1時ごろ、軍道24号(現在の国道330号)で、道路を横断しようとした住民を米兵の運転する車がはねた。

 付近の歓楽街から駆けつけた人たちが事故処理中のMP(米憲兵)を取り囲んで騒然とする中、近くで米兵による別の追突事故が発生。ヒートアップする群衆にMPが威嚇発砲したことが逆効果となり、怒りを増幅させた人たちは次々と米軍関係者の車やMPカーを横転させ、火を放った。

一夜明け、焼け焦げた車の残骸が騒動の激しさを物語る=1970年12月20日朝、軍道24号(現在の国道330号)

 騒動の3カ月前、本島南部の糸満町(現糸満市)で飲酒とスピード違反の米兵が主婦をひき殺す事件があり、12月11日に無罪判決が下されたばかりだった。

 米軍人や軍属による犯罪は60年代半ばには年間1000件を超えていた。しかし、琉球警察は捜査権を持たず、米軍法会議で加害者が無罪になったりアメリカへ帰ったまま未解決になったりというケースも少なくなかった。

 さらに基地弾薬庫で毒ガス兵器が貯蔵されていたことが発覚し、「核抜き本土並み」をうたう沖縄返還への不信感なども重なった。

 米国の圧政と人権軽視に対する不満がマグマのようにたまり、コザ騒動で一気に噴き出したとされる。

 6時間に及んだ騒動ではおよそ80台の車両を焼き払い、逮捕者は21人を数えた。

 負傷者88人を出したが、死亡者や生命にかかわるようなけがをした人はなく、周囲の店舗などへの略奪行為もなかった。

 戦後の沖縄で最大の民衆蜂起となった事件は「コザ暴動」「コザ事件」「コザ反米騒動」などと表現されることもある。

 事件を目撃・体験した人の中には今も証言をためらう人がおり、その歴史的評価は定まっていない。

ひっくり返され焼けた車を見つめる人々=1970年12月20日朝、コザ市内

 コザ市は74年に隣の美里村と合併し、沖縄市となった。

 基地に隣接することによる弊害や波乱の歴史を背負う一方で、ロックミュージックやファッション、食など、異国文化を取り込んだ「チャンプルー文化」は街の代名詞となった。

制作:琉球新報・Yahoo!ニュース
取材:2020年11~12月

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「沖縄人は人間じゃないのか」 青年の叫び

玉保世英義さん

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女性たちのコザ騒動

「コザ騒動」から50年。事件の背景にあったのは沖縄戦から続く哀しみの歴史や、米軍人・軍属による犯罪を罪に問うことができない不条理の蓄積。これまでスポットを当てられることが少なかった女性たちの証言を中心に見つめ直す。

 

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